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2010年08月03日

社長ブログ特別編 第五回

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~


第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」

4 訪日の目的と異国での旅行経験

 バードは、訪日の目的を次のように記している。

わたしは母国を離れて前にも効果のあった方法で健康を回復するよう勧められ、日本を訪れることにした。気候のすばらしさよりも、日本には新奇なものがとびきり多くあり、興味がつきないはずだという確信に惹かれてのことである。ひとりぼっちで療養する身にはこれがとても本質的なところで、楽しさと健康の回復をもたらしてくれるのである。気候にはがっかりした。とはいえ、日本はうっとりと見とれる国ではなく研究の対象となってしまったものの、興味は予想をはるかに超えた。
<時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行」 (まえがき P4)>

 訪日前年(1877)の秋、医者から健康回復を願って航海を勧められた当初の目的地は、ブラジルであった。メキシコ型の鞍を付けた馬で乗馬服を身につけ、アンデス山脈を駆けめぐりたいとの思いであった。先年のロッキー山脈紀行ブラジル版、ということだった。
 しかし、相談を受けたチャールズ・ダーウィン(「種の起源」研究者)が、日本行きを勧めている。日本は鎖国を解いて日も浅く、女性西洋人がまだ足を踏み入れていないし、新政府が西洋文化を積極的に採り入れていることや新奇なものが豊富だと、バードの興味と関心を煽ったようだ<注1>。
 バードが日本を訪れた訳は、本当にこれだけだろうか?
 上記の「まえがき」の文章は、か弱そうな裕福な療養目的の中年女性にしか映らない。しかし、小生には訪日が「健康になりたいと願う孤独な旅人の心を慰め、身体をいやすのに役立つ」からとは決して思われない。バードの著書を読み直し、バードが踏破した峠道を実際に歩いて、更にその考えが強くなった。なにせ、異国人女性一人が通訳一人だけをともなって、馬か徒歩で開国まもない未整備の道路や通信網、時には過酷とも言える連日約30㎞の行程での長距離移動の旅である。
 バードは日本での紀行文執筆を、マレー社から依頼されたが断っていた。しかし、アイヌ村を廻り函館に戻ってから考え直し、出版を承諾する手紙をマレー社に送っている。

私は当初、この国について本を書くことは不可能だと思いました。しかし、サー・ハリー・パークスが持ち前の性急さで私に手紙をくださり、ご自分や公使館の方々ができる限りの援助をしてくださるとおっしゃっるのです。サー・ハリーがおっしゃるには、私ほど北日本を旅したヨーロッパ人はほかになく、しかも私のたどった道はヨーロッパ人はほとんど通ってなく、普通の人が数週間旅するところを私は数ヶ月も旅している、ということなのです。…日本について本を書いてみようと決意しました。
<O・チェックランド著 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 日本経済評論社 P103>

 さて、バードが日本を訪れる前はどこを廻っていたのだろうか? 世界旅行を始めるきっかけは何だったのか? バードの履歴や活動事例から、考えてみる。
 バードは、1831年10月、イギリスのヨークシャーのバラブリッジで誕生。1904年(明37)10月イギリスで病没、享年72。父は牧師エドワード、母ドロシー、妹ヘンリエッタ。国教会の高位聖職者や議員を輩出している恵まれた家系一族である。
 父は、バードが幼少の折から乗馬で旅し、地理や歴史を自分の頭で考えることや物事を観察する力を育ている。そして最初のカナダ旅行に100ポンドを与え、自立の精神を期待している。母の家庭教育力は高く、作家の芽は幼少時から芽生えていると言える。
 バードは、1978年(明11)の初来日前に、次の国々を廻っている。
◇1854年(23歳)…カナダ、アメリカ
◇1857年(26歳)…アメリカ
◇1872年(41歳)…オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ(カリフォルニア)
 このように、バードが初めて外国を訪れたのは、23歳のカナダとアメリカである。そのきっかけは、18歳の時に脊椎腫・脊椎側湾症の手術を受けその後も病弱であったため、医師より海を渡り異国での生活を勧められたのである。
 また1869年には、バード家の主治医ムアに、「海の風にあたりなさい。一階に寝なさい。できれば一日のほとんどを船で過ごしなさい」と航海を勧められている。この当時イギリスの上級階層では、健康回復には転地療養や航海が効果的だとされていたのである。
 これら全ての海外の紀行文を、既に全てマレー社が次のように発刊している。
◇1856年(26歳)…「The Englishwoman in America」(イギリス女性のアメリカ紀行)
◇1875年(44歳)…「Six Months in the Sandwich Islands」(ハワイ諸島の6ヶ月旅行記)
◇1879年(48歳)…「A Lady's Life in the Rocky」(女性ロッキー山脈生活記)
 ハワイ諸島の旅行記は旅から2年後に、ロッキー山脈の生活記は旅から6年後に出版している。バードのアメリカ・カナダ旅行での関心事は、宗教や貿易、統治制度等で、都市での宗教信仰の復興運動の調査が主であり、探検的要素は少なかった。それが、41歳のハワイ諸島の旅では、キラウェエア火山や標高4169mのマウナ・ロア山に登ったり、コロラドではロッキー山脈等の未踏の地に踏み込んだりした。異国での健康回復・療養目的のはずなのに、過酷と言えるほどの探検生活を楽しんでいる。
 その上見過ごしてならないのは、これら全ての著書が好評であり、旅行作家としての地位を築き上げたことである。紀行文として内容が動植物や社会の様子など多様多彩にわたり、鋭い観察で手紙文の形式をとった臨場感溢れる巧みな表現なのである。
 バードは、その日々に体験した出来事や見聞した風俗・自然の様子をこと細かに、その日の内に日記にしたためた。それらを手紙として、ふるさとスコットランドに住む妹ヘンリエッタや友人エリザ・ブラッキーらに送っている。手紙は旅先での感動や喜び、驚き、悲しみなどをありのままに記し、臨場感あふれる表現になっている。
 バードが帰国してからそれらの手紙を回収し、時間をかけて吟味し本にまとめるという手法である。この時代にとって、バード独特の手法である。現代のメディアからすれば、海外特派員の現地レポートをまとめたものと言えよう。妹らへの手紙が、全て捨てずに丁寧に保管されているのをみると、事前に打ち合わせされていたことなのだろう。
 なお、出版元のマレー社のジョン・マレイは、当初からバードの支援者だった。バードが23歳の時に出会い、23歳年上で父親のようにバードを育てた。例えば、バードの宗教に関する出版の夢を旅行記の執筆に改めさせている。また「イギリス女性のアメリカ紀行」の書名は、初めの「列車と蒸気船」案からマレイの助言で変わった。これらの指導助言がなかったら、旅行作家としての今日のバードはなかったろう。ジョン・マレイの死後も、子息がバードの出版を支えている。
 19世紀は陸や海の交通網が急激に発達し、ヴィクトリア王朝は大英帝国として全盛期である。イギリスは1875年にはスエズ運河を買収し、77年1月には英領インド帝国をたてている。
 それ故世界漫遊ブームがおこり、多くの人々が海外に出かけている。バードもその大勢の中の一人であった。なお当時の日本の状況は、1853年ペリーが浦賀にやってきて、各国が日本に開国を迫っていた頃である。

<注1> O・チェックランド著 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 日本経済評論社 1995 P85

2010年08月06日

社長ブログ特別編 第六回

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫


第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」

5 旅行作家から探検作家へ変身

 23歳のバードは、アメリカの伝道や教会復興状況を記録する旅行作家であった。それが41歳からは、本格的な探検作家になっているといえる。いわゆる都市部での紀行ではなく、冒険といえるほどの活火山や山脈など「未踏地」の探検紀行である。
 この変容は、何がきっかけとなったのだろうか?
 それは、バードがニュージーランドのオークランドからハワイに向かう客船ネバタ号での事件であった。南太平洋でハリケーンに遭遇し、船の浮沈の瀬戸際で生命の危険にあったにもかかわらず、バードの心はかえって浮き立ち生き生きしてきたという。

私はついに恋をしたのです。海の神が私の心を奪ってしまったのです。たとえ、この身がどのように離れていても、心はいつも海の神とともにあります。
まるで新しい世界に生きているようです。なにもかも新鮮で、自由で、生命力にあ
ふれ、興味深く、眠る間も惜しいほどです。
<O・チェックランド 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 P53>

 この出来事によって、バードは自分の生きる道を発見したと言っている。即ち、「危険」と「冒険」という非日常的な要素が、自分が健康で幸せでいられるために必要なキーワードとなったのである。と同時に、以前から「女ができることは女がする権利」との女権拡張を主張していたこともあり、海外に出れば女性でも男子と同じように冒険や探検ができる、との考えも次第に強くなっていた。
 ハワイやロッキーの旅では、生活や習慣に母国イギリスとそれほど大きな違いはなく、通訳者の必要はなかった。それ故、バードはこれまでの旅行家・探検家と違って、訪れた現地民との生活や会話を楽しんだのである。現地の人さえ訪れない未踏地や高山を、メキシコ型の鞍とトルコ風のズボン、軽快な乗馬服を身につけて、男性を超える行動で心ゆくまで楽しんだ。まさしく単なる旅行作家から、未踏地を馬で走り回る冒険作家に変身したのである。
 また同時に、紀行文執筆にも生き甲斐を感じ始め、ロッキーでの「恋」など私的なことをも記している。「女性ロッキー山脈踏破行」は旅から6年後、日本での旅の翌年(1879年)に出版している。このように、これらの旅で健康を取り戻したバードは、旅行・探検作家としての不動の地位を得、自分に対して自信と誇りをもつようなった。
 ところで、40歳を超えてからの旅を連続して成功に導いてる要因は、一体何なのだろうか?
 バードの「ハワイ諸島の6ヶ月旅行記」(1875年)や「女性ロッキー山脈踏破行」(1879年)の著作から、次の5点が考えられる。
①旅行前に価値ある情報を収集し、その土地での交渉と的確な判断
②その土地の人々と一緒にくらし、その人々の生活・習慣を尊重
③最少限の装備と食料の持参と限られた随行者
④大英帝国の巨大な力を基にした各国政府の監督保護
⑤読者を魅了した女性冒険作家としての鋭い観察力と巧みな表現力
 なお、この⑤の観察力と表現力について、バードのハワイ以降の描写は明るく勢いのある筆致になっている。ネバタ号事件は、正しくバードの生き方や表現法を変えたと言える。
 日本を離れた翌年に「マレー半島」を紀行しているが、バードの描写についてチェックランドは次のように論じている。

イザベラとイネス夫人は二人とも、クアラ・ランガットの宮殿に招かれている。しかし二人の本を読むと、同じ部屋のことを描写しているとは思えない。イザベラの本には次のように書いてある。
「謁見室のバルコニーには美しい装飾がほどこされ、鮮やかな赤い花や涼しげな白い花があたり一面に飾られていました。どこもかしこも美しく、ヤシがそよ風にさやさやとゆれ、頭上では小鳥や蝶が命を謳歌するように楽しげに飛んでいました」。
その部屋の床には、美しいペルシャ絨毯が敷きつめられていた。しかしイネス夫人が通された部屋は、「板張りの小屋のような部屋で、ここが謁見室だという。四角い部屋の天井はタイル張りで、床は木がむきだしになっている。部屋の中には家具らしいものはなく、使い古された敷物が数枚と、こわれかけた洋風の椅子が一、二脚あるだけだ」。
イネス夫妻がイザベラの本を読んだとき、「ここに出てくるすべての人々、すべての事柄、すべての生き物、すべての蚊までもが、私たちには身近なものに思えた」。しかし、エミリー・イネスはこうつけ加えている。「ミス・バードは有名人で、どこに行ってもその土地の最も位の高い人々に紹介され、政府は彼女のために船を用意し、役人は彼女の意にかなうように最善をつくす。彼女の右手にあるペンは、事と次第によっては激しく攻撃し、あるいは報いをもたらすかもしれないことを彼らは知っていたのだ」。たしかにイネス夫人の言っているとおりだった。
イネス夫人は、また次のようにも書いている。「彼女の描写は細部にいたるまで、全くの真実であり、私の描写もすべてが真実だ。にもかかわらず、彼女の描写は明るく魅力的で、私のは暗く、退屈だ。その違いはどこから来たのかといえば、それは私たち二人が全く異なる状況のもとでマラヤを見たからなのだ」。
<O・チェックランド 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 P119~120>

 このように、プラス思考での描写やその土地の人々と友愛の精神で交流している姿は、この「マレー半島紀行」だけでなく、ハワイ以降の全著書にみられる特徴と言える。p5-1.jpg
 また、バードがその国の高貴な方と謁見したり政府が旅の準備との記述は、バードが有名な旅行・探検作家であると同時に、大英帝国の諜報部員「007」であることを物語っている。日本でも、明治政府や英国公使館の手厚い保護を受けているが、その後の朝鮮や中国でも同様であった。特に日清戦争の戦中・戦後に朝鮮を旅しながら、休養のためと称して5回も来日しているが、この時の日本の様子の記録は発表されていない。しかし、日英通商条約締結や日清戦争の影響を調査したに違いない、と思うのは私だけであろうか。
 また1890年59歳のバードは、チベットの帰途バクダット、テヘラン、黒海へとトルコ、ペルシャを旅した。英国陸軍情報局副主計総監のソウヤー達との軍の地勢調査だった。身なりをペルシャ女性に扮し、キャラバン隊を組織しての同行だった。
 その時の「ペルシャとクルジスタンの旅」が出版されているが、全ての記録が公表されているとは思えない。「007」の要素を裏付けると言える<注1>。
 このようにバードは、初期の20歳代は旅行作家として、40歳代のハワイ以降は探検作家として力を発揮した。行動力・観察力・コミュニケーション力の確かさが周囲に認められ、訪日を機に、晩年は「007」作家として確立し、王立地理学会員として選定されたと考える。

<注1> O・チェックランド 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 日本経済評論社 1995 P145

2010年08月18日

社長ブログ特別編 第七回

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫


第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」

6 在日外国人への厳しい旅行制限

 幕末から明治初期の在日外国人の居留地や内地旅行の実態は、どうだったのだろうか?
 明治政府は開国したものの、当初の開港場は横浜、長崎、東京、神戸、大阪、函館、新潟の7港だけであった。その上、外国人の居留地は、開港場から十里四方以内(半径25マイル・約40㎞)と、1858年(安政5)の条約で制限されていた。また内地旅行についても、外交官や一部の貴顕者を除いた一般の人は、政府発行の「外国人内地旅行免状」が必要であった。その免状の表には「寄留地名、旅行趣旨、旅行先及び道筋、旅行期限」が記され、裏には11款の心得、「各地方の規則を遵守すること、日本人との売買取引および諸約定は許可しない等々」があった<注1>。
 バードは幸いにも「制限なしの通行証」を、パークス公使の力により手に入れた。その申請理由は「健康、植物調査または学術研究」のためとなっている<注2>。
 それらの免状交付数は、1875年(明8)は1136名、1830年(明13)に1173名、1833年(明16)に1579名であり、日清戦争前の1893年(明26)には6806名に急増している。そのうちの約8割が英米国人であり、そのほとんどが箱根や富士山、日光、京都などの観光地巡りである。この規則での違反者は、年に数件のみで指定地外や無免許の旅行であったという<注3>。
 旅行制限は、1874年(明7)に「病気療養」と「研究調査」という条件付けで解かれたが、1877年(明10)には、外国人の居留地外居住は再び厳しくなっている。それは、治外法権撤廃と内地通商の動きが絡んでいたからである。即ち、諸外国は領事裁判権を保持しつつ商売遊覧のための内地旅行の権利の獲得を目指しているのに対して、日本政府は治外法権を許したままの内地旅行、特に内地通商を阻止する構えだったのである。
 また日本政府等に勤務している御雇外国人にも、1879年(明12)に大幅な内地旅行の自由が与えられたが、これらの規程は、1894年(明27)7月の「日英通商航海条約」締結まで続いていた。ただし、通行証承認の条件に通訳者の同伴と明記されているが、このような多数の外国人旅行者に対して、十分な通訳者を確保できていたかは不明である。
 さて、このように厳しい内地旅行制限にもかかわらず、英米人が中心の日本研究団体が「日本アジア協会紀要」を1874年(明7)に創刊している。この機関誌には、初期の10年間に146本もの論文が発表されている。以下は、10巻までの主な地誌と紀行文の論文である<注4>。

第1巻(1874)◆E・M・サトウ「琉球覚書」「日本の地誌」
第2巻(1875)◆L・デシャルム「江戸草津往還記」◆C・ブリッジフォード「蝦夷紀行」◆C・W・ローレンス「常陸及び下総訪問記」◆C・H・ダラス「米沢方言」
第3巻(1876)◆C・W・セント・ジョン「仙台湾測量」「大和地方奥地への旅」◆J・A・リンド「江戸新潟往復記」◆L・デシャルム「新潟への二つの道」◆ヘールツ「1872年以降の長崎の気候」◆C・H・ダラス「置賜県収録」◆J・H・ガビンス「青森から新潟・佐渡へ」
第4巻(1877)◆R・N・ブロートン「沖縄島訪問記」◆R・ロバートソン「小笠原諸島」◆D・H・マーシャル「中山道経由の江戸から京都への旅」
第5巻(1878)◆R・ロバートソン「カロリン諸島」◆J・L・ホッジス「1872年8月の伊豆大島訪問記」
第6巻(1879)◆R・H・マクティ「江戸城」◆J・J・ライン「日本の気候」◆F・V・ディキンス, E・M・サトウ「1878年の八丈島訪問記」
第7巻(1880)◆P・V・ヴェーダー「東京から見える5つの山」◆J・サマーズ「大阪覚書」
第8巻(1881)◆R・W・アトキンソン「八ヶ岳、白山、立山」
第9巻(1882)◆ヘーレツ「箱根山の芦ノ湯の鉱泉」◆W・A・ウーレイ「長崎の歴史」
第10巻(1883)◆E・ダイヴァー「草津温泉覚書」

 これらを見ると、いかに大勢の研究者が日本各地を訪ね、多採な論文を発表しているかが読み取れる。それは、日本各地の自然や文化についての在日外国人向けと母国への紹介である。
 即ち、草津や京都、山岳などの観光地の他、長崎・大阪・新潟等の開港場との往復記、琉球や伊豆大島、八丈島等の離島研究である。p6-1.jpg
 また、この紀要編集の中心的な役割を担ったのは、当時英国公使館のイギリス人アーネスト・M・サトウ(写1)である。彼は、紀要第1巻発刊前にも、次の新聞記事や著書を発表している<注5>。

◆ジャパン・ウイークリー・メイル紙の記事
・富士山の登山記(1872.2 明5) ・箱根から熱海までの旅行記(1872.3 明5)
・日光往還記(1872.3-4 明5) ・東京と京都の間の中山道往来記(1873.2-3 明6)
・多摩川渓谷の訪問記(1872.5 明5) ・大山参詣記(1872.12 明5)
◆「A Guide to Nikko」 メイル社 (1872.12 明5)
◆「A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan」<中部および北部の日本旅行案内> 初版1881(明14) 二版1884(明17)
◆回想録「一外交官の見た明治維新」

 アーネスト・M・サトウは、1862年(文久2)6月に英国公使館の通訳生として来日し、1865年(慶応元)4月にパークス公使の下で通訳官として勤め、1868年(明元)1月に書記官となる。その後に日英外交に活躍し、1895年(明25)5月には日本駐箚特命全権公使、1900年(明33)8月清国駐箚清特命全権公使まで登りつめた人物である。日本人の妻を娶り、日本滞在は合わせて25年である。外交官の地位を活用して各地を訪れ、日本研究の先駆者・第一人者、日本を理解し海外に広めた優れた外国人の一人である。英和辞典を作成し、著作も上記の他多数である。
 バードも、初来日で旅の準備等で世話になり、旅行中はサトウの英和辞典を持ち歩き、旅行後には紀行文の補足やまとめ等で指導助言を得ている。その後5回の来日や訪韓・訪中でもサトウの世話になり、生涯を通じての絆の強い仲間であった。
 なお、当時、各国の外交官が来日している。横浜・東京だけでなく長崎や函館・新潟等の開港場にも駐在員をおいている。また外国商社や会社の進出も瞬く間であった。サトウ以外にも、多くの外交官や民間人が幕末や明治維新、日本見聞の様子を記録している。多くの会社から出版されており、次の著書も参考になる。
・「イタリア使節の幕末見聞記」 V・F・アルミニヨン著 大久保昭男訳 講談社 新人物往来社 1987
・「オランダ領事の幕末維新」 A・ボードウァン著 フォス美弥子訳 新人物往来社 1987
・「ドイツ公使の見た明治維新」 ブラント・M・V著 原潔+永岡敦訳 新人物往来社 1987
・「チェンバレンの明治旅行案内」 楠家重敏著 新人物往来社 1988
 バードが、この外交官達と交流したかは、明らかではない。旅の出発にあたって、横浜・東京での滞在20日間だけでは、同じ欧州人と言えども時間を共有するのは厳しかったのではなかろうか。外交官らの日本観察の実際を、バードの観察と比較し、西洋国各国による交流の違いを、今後究めてみたいものである。

<注1・3>伊藤久子 「明治時代の外国人内地旅行問題-内地旅行違反をめぐって-」 横浜開港資料館紀要19 2001(平13)
<注2>時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」 講談社 2008(平20) P116
<注4・5>横浜開港資料館編 「図説 アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官」 有隣堂 2001(平13)

2010年08月20日

社長ブログ特別編 第八回

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫


第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」

7 日本の「情報収集」と活用

 バードは、日本に関する情報を前述した「日本アジア協会紀要」の他に、「ジャパン・ウイークリー・メイル紙」や「ア・パジェット・オブ・ジャパニーズ・ノーツ」「トーキョー・タイムズ」等の新聞で、多面的に情報を収集している。また、訪日前にはチェンバーズの百科事典(1863年版・文久3)を調べて、次のように記している。

日本には超俗と俗のふたりの皇帝がいる。日本には世襲大名という特権階級が支配している。陸軍の使用している武器は火縄銃、弓矢である。海軍は木造の戦船で編成されている。通貨は鉄貨のみである。現存する風習で最も注目すべきことはハラキリである。都市には上流階級しか馬には乗っては入れない。国土の面積は26万5000平方マイル〔約68万9000平方キロ〕と推定される。…これらの記述の多くは16年前ならまったく正しかったものである。
<時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」 講談社 P50>

 このようにバードは、探検に備えて念入りな下調べをおこない、激動している日本の姿を直視し周到な準備を整えた。
 また、サンフランシスコからの22日間にわたる「シティ・オブ・トーキョウ号」内でも、仲間や日本人旅行者たちから絶えず日本に関する情報を聞き出している。そこでは、「長期にわたる謎めいた鎖国の話」や「開国以来の急速度での変化の様子」「昔の旅行者の空想が混じった報告」等の話に、玉石混じった情報で混乱したらしい<注1>。
 明治政府は開国後、西欧文明を採り入れ近代化を推進するために外国人を積極的に雇用した。それらの外国人は、高給で採用され一時期には全国に500人もいたという。米沢にはC・H・ダラスが1873年(明6)から1875年(明8)に米沢洋学舎に英語教師として赴任している。近代医学者ローレツが1880 年(明13)から1882 年(明15)に山形済生館に、その他隧道開削の土木工事や蚕業技術者、英語教師として、多くの外国人が近代化と西洋文明の開化に大きな貢献を果たした。
 C・H・ダラスは、「日本アジア協会紀要第3巻」(1876・明9)に「街道旅案内付 置賜県収録」を発表している。題名は「置賜県」とあるが、山形県統合前の置賜県の生活や蚕業の様子だけでなく、宇都宮から福島への奥州街道周辺の自然・人文地理の記述があり、その旅程表や地図がついている<注2>。
 ダラスが、米沢の様子に影響を与えた箇所は、次の通りである。

上層階層の「さむらい」は、大名の年貢の中から扶持米を貰っていたのではなく、小作料として直接農民から受けとっていた。この権利は、表向きは閑職の身分にある者の給料であったが、父子代々受け継がれてきたので、さむらい達は、実質は地主であり、彼らの所得を中央政府に譲渡することで同意黙認の態度を示した事は、彼らの愛国心が最高の栄誉にまで高められたことになる。今までは、農民、もっと正確には小作人と呼ばれる人達に、同情を寄せるというのが、外国人のやり方であった。
<C・H・ダラス著 松野良寅訳 「街道旅案内付 置賜県収録」 米沢市史編集資料第8号 P47>

土地は非常に肥沃で、米も多量に産出し、西部海岸まで(注:酒田)移出できるほどで、そこから大量に函館へ回送されると言われている。小麦・大麦・じゃがいも・欧州種の人参・かぶが栽培されている。柿・ぶどう・くるみ・栗が豊富で、昨年(1874年)は小規模ながら、ワインの醸造が試みられた。結果上々とまではいかなかったが、実験の反復を促すに足るだけの成果はあがった。最後に何よりも重要なことだが、桑の木が全域にわたりよく生育しており、盆地北西隅では全く非の打ち所がない程見事で、そこには、蚕卵で知られている荒砥・宮・小出の部落がある。蚕卵は全県で作られているが、北西部の下長井のものが、最も良質であると言われている。
<C・H・ダラス著 松野良寅訳 「街道旅案内付 置賜県収録」 米沢市史編集資料第8号 P48>

 バードはこれらの「アジア協会紀要」を携行しており、越後街道の宿泊所で再読したであろう米沢盆地の記述が、バードの記憶に残っていたと考えられる。このことが、バードが米沢平野を「アジアのアルカディア」と称賛した基になっていると考える。
 なぜなら、目の前に拡がる「鉛筆で描いたように」整然とした耕地や多種多様な農産物を栽培している景観に納得したと同時に、旅が始まって一ヶ月経った米沢盆地での梅雨明けの爽やかさは、これまで連日の雨にたたられた辛苦から解放された喜びであったのだろう。この7月中旬の梅雨明けの山形の気候は、温度が20度、湿度も低く、地元民にとっても最も過ごしやすい時期なのである。更に、耕作している地元民の明るい表情や勤勉さが直に伝わってきたのだろう。
 最近、飯豊町の高台から見える中郡地区の「散居集落」の景観が、あたかも「アルカディア」であるかのような記述が見られる。しかし、バードはその高台は通ってはいないし、それらの散居集落はバードが歩いた街道からも離れている。また宇津峠を下りた眺望のきく所や小松に近い諏訪峠からは、盆地での耕地や農産物の様子は望遠鏡を使っても、概観することはできない。更に、馬上から見る吉島や州島地区の概観は、その街道が平地であるため無理である。
 従って、雨にうたれ、傾斜の厳しい十三峠をやっとの思いで越してきたからこそ、晴れ渡った米沢盆地を歩くバードの頭には、ダラスの記述内容が横切ったのであろう。実際、高山や吉島、州島地区の農家は、その当時も既に灌漑された水田をもち、家の周り畑で多品種の農産物を耕作し、イギリス人が好むであろう「箱庭的な景観」が拡がっていたと思われる。現在でも、その面影を残しており、正しく「アルカディア」と言える。
 さてダラスは、1871年(明4)に設立された米沢洋学舎に、1873年(明6)英語教師として東京の大学南校(現東京大学)から赴任した。洋学舎では英語のみならずフランス語や数学、地理、経済学も指導しサッカーや陸上、体操等も紹介したという。
 その前年1872年(明5)には英語の学習書「英音論」(吉尾和一訳)を尚古堂から出版<注2>し、英語の発音の入門書として日本の英語教育推進で高い評価を得ている。また「日本アジア協会紀要」に、「米沢方言」を1875年(明8)に、前述の「置賜県収録」を1876年(明9)に発表している<注3>。「米沢方言」については、「米沢の百姓の話すことが東京出身者には皆目わからない」として、「独特の語調、音節の発音、ある語の意味、語法と表現の使い方」等について具体的に説明している。方言と地方語、共通語を究める上で貴重な論文である。
 そしてダラスは、米沢牛の食堂を米沢に開店させ、牛一頭を連れて帰京した。東京では、仮名垣魯文の「安愚楽鍋」が出版された頃であり、米沢牛の宣伝に努めた逸話が残っている。
 更に、バードは訪日に際し、在日英国人の有力者宛に英国政府等からの紹介状40通以上を持参している<注5>。既に旅行作家として著名だったバードの積極性と、それまでに培った人脈からの紹介状であり、その効果は、直ちに発揮されたことは言うまでもない。英国公使館滞在中は貴顕者扱いの待遇であり、英国公使館のハリー・S・パークス公使は勿論、宣教師のヘボン博士、工部大学校のダイヤー校長、海軍兵学校のチェンバレン氏、J・バチェラー、ブラキストン、教会関係者、明治政府関係者等に渡されたと推察する。

<注1・5>イザベラ・バード著 時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行」 講談社 2008.4
<注2>C・H・ダラス著 「街道旅案内付 置賜県収録」 日本アジア協会紀要 米沢市史編集資料第8号 1982.3
<注3>C・H・ダラス著 吉尾和一訳 「英音論」 尚古堂刊 米沢市史編集資料第8号 1982.3
<注4>C・H・ダラス著 「米沢方言」 日本アジア協会紀要 米沢市史編集資料第8号 1982.3

2010年08月30日

社長ブログ特別編 第九回

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫


第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」

8 近距離ルートをとらない訳
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 「UNBEATEN TRACKS IN JAPAN」は、横浜に着いた5月21日からの紀行文である。その3週間後の6月10日には、北海道のアイヌ村を目指した旅が始まっている。バードの旅程は、往路は陸路を人力車・馬・徒歩・川舟で、復路は函館~横浜間の海路<図1>を、通常48時間のところ台風のために72時間かかっている。
 この旅程図をみて、最終目的の北海道へ渡るのに不自然な遠回りになっていることで、次の3つの疑問を持った。
①北海道に向かうには距離の短い奥州街道を通るのが普通なのに、なぜ新潟に向かったのか?
②福島の大内から北へ向かうには、会津若松や米沢を通るのが普通なのに、なぜ坂下・野沢に向かったのか?
③新潟からは村上・鶴岡・酒田を通って秋田に向かうのが普通なのに、なぜ日本海沿いの浜街道を避けて、山形を目指したのか?
 まず①の疑問点は、2008年に発刊された時岡氏の「日本紀行」で謎が解けた。新潟から船で北海道へ渡る当初の計画であったが、実際には蝦夷行きの汽船が一ヶ月近くもないことがわかり、新潟で陸路約720㎞の計画変更したのである。この部分は、高梨氏の「奥地紀行」では省略されているのである<注1>。
 ②については、すでに述べたように、ダラスが1872年(明5)に米沢を訪問しており、「日本アジア協会紀要」に既に「置賜県収録」を発表している。バードにとって、米沢は未踏地ではないのである。
 また、新政府との戊辰戦争で負けた「賊軍」の地である会津若松と米沢を避けたのだろう。戊辰戦争からまだ10年、前年に西南戦争が終結したばかりである。明治政府と英国との結びつきは強くなってはいるが、各地で外国人と日本人との小競り合いはまだ起きている状況にある。
 そのような観点から、英国女性一人が賊軍の地の旅を躊躇するのは、明治政府や英国公使館として当然のことだったと考える。これらのことから、③についても新政府に徹底抗戦した会津若松や米沢・鶴岡・酒田の「賊軍」地を避け、新政府に味方した「官軍」のまちや明治政府の息のかかったまちを選んだのは言うまでもない。
 当時の山形県は、新政府が県令三島通庸を送り込み、三島は道路開削や産業振興、税金徴収対策等々の諸策を積極的に推進していたのである。山形以北の旧新庄・久保田・津軽藩は途中で「官軍」になったので、それほど心配はないと考えたのだろう。
 開国以来の多くの外国人が、前述したように日本各地を廻り旅行記を表している。それらをバードは読破しており、先人が通った道を極力避けている。バードは、何よりも「未踏の地」と「古き日本」、即ちこれまで西洋人が通っていない道、それも西洋文明の波が及んでいない会津や置賜の山間僻地を選んだのであろう。東京出発前の「情報不充分」で空白地区224㎞とは、ここを指しているのだろうか<注2>。今後の課題である。
 ところで、バードは限られた荷物のなかに下記のブラントンの日本地図を携行している。第22信の市野々で「ブラントン氏のすばらしい地図にはこの地方が載っていないので、旅を続けるにはよく知られた都市山形を目標に定め、そこに至るルートを考え出すしかありません」とある<注3>。
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 ブラントンは、横浜の街や各地の灯台を造った人であり、銅像が横浜スタジアムの広場東側にある。この地図は横浜開港資料館に所蔵されている。バードが荷物を吟味して携行した貴重な情報源である。最上川や月山、主な町などは、確実に記載されているが、小国や飯豊の越後街道沿いはやはり詳しくない。
 蚤・虱でいっぱいで地区の人々が覗き込む宿舎で、バードがブラントン地図を広げて行動計画を練る様子を想像するのは楽しい。おそらくその地図には、バードがその地その地で気づいたり考えたメモが、ぎっしり書き込まれていたのではなかろうか。バードのメモが書かれた地図が発見されることを、今後に期待している。

<注1・2・3>イザベラ・バード著 時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行」 講談社学術文庫 2008.4 (上) P84,P286,P309

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