去来と芭蕉、義仲
2008.03.17
京都の新学社を訪ねました。ワークブックやテスト、ドリル、問題集、資料集などの小中学校用の学習教材や月刊の家庭学習教材、幼児向けの学習絵本などを刊行している会社です。我が社では、主に中学校の教材を扱っており、たいへんお世話になっております。
新学社には文化承継室というものがあります。そこでは、京都嵯峨にある落柿舎を管理・運営しているのです。落柿舎には、以前訪れたことがありました。私の好きな京都の一つでありました。落柿舎を案内していただきました。
落柿舎は、元禄の俳人、向井去来の庵として有名です。去来は芭蕉の門人で、その芭蕉に、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称えられたといわれています。芭蕉がもっとも信頼した高弟でした。
この去来の庵に芭蕉が訪ねてきて、そこで書いたのが『嵯峨日記』だそうです。なんか、国語か日本史で習ったような気がします。また、去来が、師匠の俳諧の神髄を伝えるために書いたのが『去来抄』です。この中に、師の句「行春(ゆくはる)を近江(おうみ)の人とおしみけり」を解釈した一文があります。
あるとき、芭蕉が、この句について、「弟子の尚白が、この俳句の近江は丹波でもいいし、行春は行歳でもいいんじゃないと言っているけど、おまえどう思う?」去来は「尚白のいうことはおかしい。近江だから琵琶湖が朦朧として、その今日だから、行春を惜しむでなければならない。まさに先生のこの言葉、行春、近江が感動をよぶのです。」といいます。芭蕉は「去来、おまえほど風雅を語ることができるものはいないなあ。」とことのほか喜んだそうです。
芭蕉のこの句「行春を近江の人とおしみけり」の句碑が、大津の義仲寺にあります。義仲寺は木曽義仲が討ち死にしたところにつくられました。木曽義仲は平氏討伐の挙兵後、日の出の勢いで平氏の大軍を破り、京都に入って『朝日将軍』と呼ばれました。これは歴史で習いましたね。その後、義仲は、源頼朝、義経らと戦い、討ち死にしてしまいます。
討ち死にした地に「無名庵」がつくられ、巴御前がねんごろに供養したので、そこは、巴庵や義仲寺と呼ばれるようになったそうです。やがて、江戸時代になり、芭蕉は木曽義仲の生涯にいたく感動し、無名庵を時々訪れました。そして、そこがすっかり気に入って「骸(から)は木曽塚におくるべし」と遺言し、義仲寺に葬られました。
この義仲寺も、じつは、新学社文化承継室が管理・運営しているのだそうです。芭蕉と去来、そして芭蕉と義仲、二つの関係を結びつける「行春を近江の人とおしみけり」。
「行春」のころ、きっと「近江」に行くぞ!