「最初のひとつぶの雪」
2008.12.08
二十四節気、大雪です。雪の降る季節がくると、きっと思い出す教材があります。小学校6年生の教科書に載っていた『加代の四季』という、杉みき子さんの文章です。その中に、次のような一節があります。
「あんなに、つもっては消え、つもっては消えしているのに、どうして、いつのまに、ふんでもとけないぶ厚い雪の道ができあがるんだろう。土にとりついて、とけないで、上から落ちてくるなかまをささえた、その最初のひとつぶの雪を、加代は見たい」
「最初のひとつぶの雪」になろうとして、つぎからつぎに落ちてくる雪が、土にとりつこうとしたとたんにとけ、いつまでたっても「最初のひとつぶの雪」になれずにいる、それを、加代は、ガラス窓に顔をくっつけるようにして見ているのです。
「最初のひとつぶの雪」を見たいという加代の気持ちは、子どもたちをびっくりさせます。「そういえば、私も、そう思っていたときが、たしかにあった」と思うのです。そのことを、すっかり忘れていた自分に驚くのです。
金子みすずさんの『つもった雪』という詩があります。これも、教科書に出ているのでしょうか。
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。
下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。
中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。
杉みき子さんが見た「最初のひとつぶの雪」と同じように、金子みすずさんは、上の雪と下の雪、中の雪を見て、それぞれに思いをよせています。ひとひらひとひらの雪を、ひとからげにせずに、「最初のひとつぶの雪」、「上の雪」「下の雪」「中の雪」と呼ぶ感性。
これは女性の感性なのでしょうか。それも、都会の女性ではなく、雪国に生まれ育った女性の、それはそれはこまやかな感じ方です。雪国の女性は、まさに、『神は細部に宿る』なのです。