純白を 花びらのように かさねていって
2008.12.17
雪国の女性の感性について書きましたが、雪国の男性の感性としては、吉野弘の『雪の日に』があります。その一節。
純白を 花びらのように かさねていって
あとからあとから かさねていって
雪の汚れを かくすのだ
作者は、雪は純白ではない、汚れるものだ、白いのは「うわべの白さ」だといいます。だから、雪は降るのだ、降りつづくのだといいます。そのうえに、雪は白いものだ、汚れぬものだと信じられているから、雪はせつなくなって、さらにはげしく降るのだといいます。
このような雪の見方は、雪国の男性の感性です。吉野弘は1925年1月16日、山形県酒田市に生まれました。琢成第二尋常小学校に入学、総代で卒業し、酒田市立商業学校に入学したとあります。(『吉野弘詩集』ハルキ文庫 著者自筆年譜)
吉野弘は、山形が誇る詩人です。私も大好きな詩人の一人です。中学校、高校の国語の教科書に作品が取り上げられていますから、日本中の若者が読んでいる詩人ということになります。当社発行『やまがた中学生の読書2』に、「夕焼け」が載っています。
満員電車で、「としより」に2度も席を譲った娘が、3度目には席を立つことができずにいる、その娘の気持ちを「美しい夕焼け」と重ね合わせている詩です。その娘に心を寄せて、目を離せなくなった作者は、先に電車を降ります。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
吉野弘は、この娘を見る目で、降る雪を見たのではないでしょうか。この娘を、満員の車内の人は気づきもしなければ、何とも思わないかも知れません。この娘にしても、受難者などという思いはさらさら無いかも知れません。
そこに間違いなくいるのは、「やさしい心に責められながら 娘はどこまでゆけるだろう。下唇を噛んで つらい気持ちで 美しい夕焼けも見ないで。」と思わずにはいられない吉野弘です。彼自身が、「責め」の思い、「受難者」の思いをもったのです。
「どこに 純白な心など あろう どこに 汚れぬ雪など あろう」と彼は、自分を見つめていいます。人が生きるということは、おのれの汚れをかくすため、「純白を 花びらのように かさねていく」ことだと、彼は、雪国の男としていっているように思います。