社長ブログ

社長ブログ特別編 第六回

2010.08.06

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫
第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」
5 旅行作家から探検作家へ変身
 23歳のバードは、アメリカの伝道や教会復興状況を記録する旅行作家であった。それが41歳からは、本格的な探検作家になっているといえる。いわゆる都市部での紀行ではなく、冒険といえるほどの活火山や山脈など「未踏地」の探検紀行である。
 この変容は、何がきっかけとなったのだろうか?
 それは、バードがニュージーランドのオークランドからハワイに向かう客船ネバタ号での事件であった。南太平洋でハリケーンに遭遇し、船の浮沈の瀬戸際で生命の危険にあったにもかかわらず、バードの心はかえって浮き立ち生き生きしてきたという。
私はついに恋をしたのです。海の神が私の心を奪ってしまったのです。たとえ、この身がどのように離れていても、心はいつも海の神とともにあります。
まるで新しい世界に生きているようです。なにもかも新鮮で、自由で、生命力にあ
ふれ、興味深く、眠る間も惜しいほどです。
<O・チェックランド 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 P53>

 この出来事によって、バードは自分の生きる道を発見したと言っている。即ち、「危険」と「冒険」という非日常的な要素が、自分が健康で幸せでいられるために必要なキーワードとなったのである。と同時に、以前から「女ができることは女がする権利」との女権拡張を主張していたこともあり、海外に出れば女性でも男子と同じように冒険や探検ができる、との考えも次第に強くなっていた。
 ハワイやロッキーの旅では、生活や習慣に母国イギリスとそれほど大きな違いはなく、通訳者の必要はなかった。それ故、バードはこれまでの旅行家・探検家と違って、訪れた現地民との生活や会話を楽しんだのである。現地の人さえ訪れない未踏地や高山を、メキシコ型の鞍とトルコ風のズボン、軽快な乗馬服を身につけて、男性を超える行動で心ゆくまで楽しんだ。まさしく単なる旅行作家から、未踏地を馬で走り回る冒険作家に変身したのである。
 また同時に、紀行文執筆にも生き甲斐を感じ始め、ロッキーでの「恋」など私的なことをも記している。「女性ロッキー山脈踏破行」は旅から6年後、日本での旅の翌年(1879年)に出版している。このように、これらの旅で健康を取り戻したバードは、旅行・探検作家としての不動の地位を得、自分に対して自信と誇りをもつようなった。
 ところで、40歳を超えてからの旅を連続して成功に導いてる要因は、一体何なのだろうか?
 バードの「ハワイ諸島の6ヶ月旅行記」(1875年)や「女性ロッキー山脈踏破行」(1879年)の著作から、次の5点が考えられる。
①旅行前に価値ある情報を収集し、その土地での交渉と的確な判断
②その土地の人々と一緒にくらし、その人々の生活・習慣を尊重
③最少限の装備と食料の持参と限られた随行者
④大英帝国の巨大な力を基にした各国政府の監督保護
⑤読者を魅了した女性冒険作家としての鋭い観察力と巧みな表現力
 なお、この⑤の観察力と表現力について、バードのハワイ以降の描写は明るく勢いのある筆致になっている。ネバタ号事件は、正しくバードの生き方や表現法を変えたと言える。
 日本を離れた翌年に「マレー半島」を紀行しているが、バードの描写についてチェックランドは次のように論じている。
イザベラとイネス夫人は二人とも、クアラ・ランガットの宮殿に招かれている。しかし二人の本を読むと、同じ部屋のことを描写しているとは思えない。イザベラの本には次のように書いてある。
「謁見室のバルコニーには美しい装飾がほどこされ、鮮やかな赤い花や涼しげな白い花があたり一面に飾られていました。どこもかしこも美しく、ヤシがそよ風にさやさやとゆれ、頭上では小鳥や蝶が命を謳歌するように楽しげに飛んでいました」。
その部屋の床には、美しいペルシャ絨毯が敷きつめられていた。しかしイネス夫人が通された部屋は、「板張りの小屋のような部屋で、ここが謁見室だという。四角い部屋の天井はタイル張りで、床は木がむきだしになっている。部屋の中には家具らしいものはなく、使い古された敷物が数枚と、こわれかけた洋風の椅子が一、二脚あるだけだ」。
イネス夫妻がイザベラの本を読んだとき、「ここに出てくるすべての人々、すべての事柄、すべての生き物、すべての蚊までもが、私たちには身近なものに思えた」。しかし、エミリー・イネスはこうつけ加えている。「ミス・バードは有名人で、どこに行ってもその土地の最も位の高い人々に紹介され、政府は彼女のために船を用意し、役人は彼女の意にかなうように最善をつくす。彼女の右手にあるペンは、事と次第によっては激しく攻撃し、あるいは報いをもたらすかもしれないことを彼らは知っていたのだ」。たしかにイネス夫人の言っているとおりだった。
イネス夫人は、また次のようにも書いている。「彼女の描写は細部にいたるまで、全くの真実であり、私の描写もすべてが真実だ。にもかかわらず、彼女の描写は明るく魅力的で、私のは暗く、退屈だ。その違いはどこから来たのかといえば、それは私たち二人が全く異なる状況のもとでマラヤを見たからなのだ」。
<O・チェックランド 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 P119~120>

 このように、プラス思考での描写やその土地の人々と友愛の精神で交流している姿は、この「マレー半島紀行」だけでなく、ハワイ以降の全著書にみられる特徴と言える。p5-1.jpg
 また、バードがその国の高貴な方と謁見したり政府が旅の準備との記述は、バードが有名な旅行・探検作家であると同時に、大英帝国の諜報部員「007」であることを物語っている。日本でも、明治政府や英国公使館の手厚い保護を受けているが、その後の朝鮮や中国でも同様であった。特に日清戦争の戦中・戦後に朝鮮を旅しながら、休養のためと称して5回も来日しているが、この時の日本の様子の記録は発表されていない。しかし、日英通商条約締結や日清戦争の影響を調査したに違いない、と思うのは私だけであろうか。
 また1890年59歳のバードは、チベットの帰途バクダット、テヘラン、黒海へとトルコ、ペルシャを旅した。英国陸軍情報局副主計総監のソウヤー達との軍の地勢調査だった。身なりをペルシャ女性に扮し、キャラバン隊を組織しての同行だった。
 その時の「ペルシャとクルジスタンの旅」が出版されているが、全ての記録が公表されているとは思えない。「007」の要素を裏付けると言える<注1>。
 このようにバードは、初期の20歳代は旅行作家として、40歳代のハワイ以降は探検作家として力を発揮した。行動力・観察力・コミュニケーション力の確かさが周囲に認められ、訪日を機に、晩年は「007」作家として確立し、王立地理学会員として選定されたと考える。
<注1> O・チェックランド 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 日本経済評論社 1995 P145

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