社長ブログ

社長ブログ特別編 第八回

2010.08.20

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫
第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」
7 日本の「情報収集」と活用
 バードは、日本に関する情報を前述した「日本アジア協会紀要」の他に、「ジャパン・ウイークリー・メイル紙」や「ア・パジェット・オブ・ジャパニーズ・ノーツ」「トーキョー・タイムズ」等の新聞で、多面的に情報を収集している。また、訪日前にはチェンバーズの百科事典(1863年版・文久3)を調べて、次のように記している。
日本には超俗と俗のふたりの皇帝がいる。日本には世襲大名という特権階級が支配している。陸軍の使用している武器は火縄銃、弓矢である。海軍は木造の戦船で編成されている。通貨は鉄貨のみである。現存する風習で最も注目すべきことはハラキリである。都市には上流階級しか馬には乗っては入れない。国土の面積は26万5000平方マイル〔約68万9000平方キロ〕と推定される。…これらの記述の多くは16年前ならまったく正しかったものである。
<時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」 講談社 P50>

 このようにバードは、探検に備えて念入りな下調べをおこない、激動している日本の姿を直視し周到な準備を整えた。
 また、サンフランシスコからの22日間にわたる「シティ・オブ・トーキョウ号」内でも、仲間や日本人旅行者たちから絶えず日本に関する情報を聞き出している。そこでは、「長期にわたる謎めいた鎖国の話」や「開国以来の急速度での変化の様子」「昔の旅行者の空想が混じった報告」等の話に、玉石混じった情報で混乱したらしい<注1>。
 明治政府は開国後、西欧文明を採り入れ近代化を推進するために外国人を積極的に雇用した。それらの外国人は、高給で採用され一時期には全国に500人もいたという。米沢にはC・H・ダラスが1873年(明6)から1875年(明8)に米沢洋学舎に英語教師として赴任している。近代医学者ローレツが1880 年(明13)から1882 年(明15)に山形済生館に、その他隧道開削の土木工事や蚕業技術者、英語教師として、多くの外国人が近代化と西洋文明の開化に大きな貢献を果たした。
 C・H・ダラスは、「日本アジア協会紀要第3巻」(1876・明9)に「街道旅案内付 置賜県収録」を発表している。題名は「置賜県」とあるが、山形県統合前の置賜県の生活や蚕業の様子だけでなく、宇都宮から福島への奥州街道周辺の自然・人文地理の記述があり、その旅程表や地図がついている<注2>。
 ダラスが、米沢の様子に影響を与えた箇所は、次の通りである。
上層階層の「さむらい」は、大名の年貢の中から扶持米を貰っていたのではなく、小作料として直接農民から受けとっていた。この権利は、表向きは閑職の身分にある者の給料であったが、父子代々受け継がれてきたので、さむらい達は、実質は地主であり、彼らの所得を中央政府に譲渡することで同意黙認の態度を示した事は、彼らの愛国心が最高の栄誉にまで高められたことになる。今までは、農民、もっと正確には小作人と呼ばれる人達に、同情を寄せるというのが、外国人のやり方であった。
<C・H・ダラス著 松野良寅訳 「街道旅案内付 置賜県収録」 米沢市史編集資料第8号 P47>

土地は非常に肥沃で、米も多量に産出し、西部海岸まで(注:酒田)移出できるほどで、そこから大量に函館へ回送されると言われている。小麦・大麦・じゃがいも・欧州種の人参・かぶが栽培されている。柿・ぶどう・くるみ・栗が豊富で、昨年(1874年)は小規模ながら、ワインの醸造が試みられた。結果上々とまではいかなかったが、実験の反復を促すに足るだけの成果はあがった。最後に何よりも重要なことだが、桑の木が全域にわたりよく生育しており、盆地北西隅では全く非の打ち所がない程見事で、そこには、蚕卵で知られている荒砥・宮・小出の部落がある。蚕卵は全県で作られているが、北西部の下長井のものが、最も良質であると言われている。
<C・H・ダラス著 松野良寅訳 「街道旅案内付 置賜県収録」 米沢市史編集資料第8号 P48>

 バードはこれらの「アジア協会紀要」を携行しており、越後街道の宿泊所で再読したであろう米沢盆地の記述が、バードの記憶に残っていたと考えられる。このことが、バードが米沢平野を「アジアのアルカディア」と称賛した基になっていると考える。
 なぜなら、目の前に拡がる「鉛筆で描いたように」整然とした耕地や多種多様な農産物を栽培している景観に納得したと同時に、旅が始まって一ヶ月経った米沢盆地での梅雨明けの爽やかさは、これまで連日の雨にたたられた辛苦から解放された喜びであったのだろう。この7月中旬の梅雨明けの山形の気候は、温度が20度、湿度も低く、地元民にとっても最も過ごしやすい時期なのである。更に、耕作している地元民の明るい表情や勤勉さが直に伝わってきたのだろう。
 最近、飯豊町の高台から見える中郡地区の「散居集落」の景観が、あたかも「アルカディア」であるかのような記述が見られる。しかし、バードはその高台は通ってはいないし、それらの散居集落はバードが歩いた街道からも離れている。また宇津峠を下りた眺望のきく所や小松に近い諏訪峠からは、盆地での耕地や農産物の様子は望遠鏡を使っても、概観することはできない。更に、馬上から見る吉島や州島地区の概観は、その街道が平地であるため無理である。
 従って、雨にうたれ、傾斜の厳しい十三峠をやっとの思いで越してきたからこそ、晴れ渡った米沢盆地を歩くバードの頭には、ダラスの記述内容が横切ったのであろう。実際、高山や吉島、州島地区の農家は、その当時も既に灌漑された水田をもち、家の周り畑で多品種の農産物を耕作し、イギリス人が好むであろう「箱庭的な景観」が拡がっていたと思われる。現在でも、その面影を残しており、正しく「アルカディア」と言える。
 さてダラスは、1871年(明4)に設立された米沢洋学舎に、1873年(明6)英語教師として東京の大学南校(現東京大学)から赴任した。洋学舎では英語のみならずフランス語や数学、地理、経済学も指導しサッカーや陸上、体操等も紹介したという。
 その前年1872年(明5)には英語の学習書「英音論」(吉尾和一訳)を尚古堂から出版<注2>し、英語の発音の入門書として日本の英語教育推進で高い評価を得ている。また「日本アジア協会紀要」に、「米沢方言」を1875年(明8)に、前述の「置賜県収録」を1876年(明9)に発表している<注3>。「米沢方言」については、「米沢の百姓の話すことが東京出身者には皆目わからない」として、「独特の語調、音節の発音、ある語の意味、語法と表現の使い方」等について具体的に説明している。方言と地方語、共通語を究める上で貴重な論文である。
 そしてダラスは、米沢牛の食堂を米沢に開店させ、牛一頭を連れて帰京した。東京では、仮名垣魯文の「安愚楽鍋」が出版された頃であり、米沢牛の宣伝に努めた逸話が残っている。
 更に、バードは訪日に際し、在日英国人の有力者宛に英国政府等からの紹介状40通以上を持参している<注5>。既に旅行作家として著名だったバードの積極性と、それまでに培った人脈からの紹介状であり、その効果は、直ちに発揮されたことは言うまでもない。英国公使館滞在中は貴顕者扱いの待遇であり、英国公使館のハリー・S・パークス公使は勿論、宣教師のヘボン博士、工部大学校のダイヤー校長、海軍兵学校のチェンバレン氏、J・バチェラー、ブラキストン、教会関係者、明治政府関係者等に渡されたと推察する。
<注1・5>イザベラ・バード著 時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行」 講談社 2008.4
<注2>C・H・ダラス著 「街道旅案内付 置賜県収録」 日本アジア協会紀要 米沢市史編集資料第8号 1982.3
<注3>C・H・ダラス著 吉尾和一訳 「英音論」 尚古堂刊 米沢市史編集資料第8号 1982.3
<注4>C・H・ダラス著 「米沢方言」 日本アジア協会紀要 米沢市史編集資料第8号 1982.3

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