社長ブログ

社長ブログ特別編 第十回

2010.09.08

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫
第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」
9 治安のよさと旅成功の六要因
p-8-1.jpg バードが横浜港に着いたのは、47歳の1878年(明11)5月である。4月にイギリスを出発し、ニューヨーク・サンフランシスコ・上海を経由している。サンフランシスコからは、22日間の航海であった。
 横浜ではオリエンタルホテルに二泊しただけで、汽車で東京に向かい、英国公使館やローマ字を考え出したヘボン博士宅に滞在し、精力的に情報を収集し周到な計画を練っている。
 東北地方の未踏地や北海道のアイヌ村を訪ねる旅の構想はいつ頃できたのであろうか? バードは、次のように記している。
東北地方について知っている外国人はほとんどいないようです。また政府のある部局はわたしが問い合わせると旅程表をくれましたが、踏破したいと考えているルートのうち140マイル〔約224㎞〕分は〔情報不充分〕という理由で空白のままです。ハリー卿がにこやかにおっしゃるには『情報は行って自分で集めなければならないようですね。そのほうがかえっておもしろいじゃありませんか』。ああ! でもどうやって?
<時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」 講談社 P84>

 バードは、旅の計画中、在日のイギリス人に日本での旅は「東北と北海道」であることを語り、指導助言を得ようとした。ヘプバーン博士は「この旅行はすべきでない、津軽海峡すら行けないだろう」という考えで、ほとんどの人々も友好的な関心を引き起こしたが、蚤の大群と粗末な馬が旅の障害になると「反対」であった。
 しかし、イギリス領事代理のウィルキンソン氏は、「内陸旅行計画はかなりむちゃではあるものの、女性がひとりで旅してもまったく安全」と「賛成」した。パークス公使と夫人も「親切であり、内陸を旅するという最大の計画について心から励ましている」と、旅支度の準備を協力している。
 当時、外国人の内地旅行には厳しい制限があったが、パークス公使の力によりバードは「制限なしの通行証」を手に入れた。踏破したいルートは「東北と北海道」と固まったようだが、その計画ルートについては明示されていない。予定と実際の旅がどう変わったか興味のあるところである。
 日本での女性一人の旅は、イギリス公使館のハリーやウィルキンソン氏が述べているように、本当に治安は安全だったのだろうか? バードは、次のように記している。
ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかれたりするでしょう。でもここではただの一度として不作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。それに野次馬が集まったとしても、不作法ではありません。
<時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」 講談社 P228>

この家の女性たちはわたしが暑がっているのを知ると、気をきかせてうちわを取り出し、丸一時間わたしをあおいでくれました。代金を聞くと、それはいらないと答え、まったく受け取ろうとしません。これまで外国人を一度も見たことがない、本にわたしの「尊い名前」を書いてもらったからには、お金を受け取って自分たちを貶めるわけにはいかないというのです。
<時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」 講談社 P312~313>

わたしは本州奥地と蝦夷の1200マイル(約1920㎞)を危険な目に遭うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。
<時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」 講談社 P484>

 このように、未踏の地でも日本の治安のよさと安全性は、世界でも突出していることに感嘆している。治安の安定と日本人の思いやりの美風は健在であり、バードは賛嘆している。
 さて、旅行支度はどのようなものだったのだろうか? 第9信の「粕壁」に記している<注3>。
・◎柳行李2個(紙で内張り・防水カバー) ・◎折り畳み椅子 ・◎ゴム製浴槽
・◎折り畳み式ベット(軽い棒にキャンパス地、高さ76㎝、2分で組み立て)
・人力車用の空気枕 ・シーツ ・毛布一枚 ・適度な量の着替、部屋着 ・蝋燭
・メキシコ式鞍と馬勒 ・ブラントンの大判日本地図 ・アジア協会紀要数冊
・サトウの英和辞典
<食料> ・リービッヒ製エキス少々 ・レーズン4ポンド ・チョコレート少々・ブランデイ少々
 このうち◎印4点は、パークス公使夫人が準備してくださった。新潟では蚤除けの蚊帳を加え、ビスケット一缶をファイソン夫人から、チョコレートとキニーネがバーム博士から贈られている。しかし、荷物の重さは粕壁での当初の50㎏から29㎏にまで減らしている。荷物をできるだけ少なくし、食料は現地調達方式でというこれまでの旅経験から得た教訓を、活かしているのである<注4>。なお、望遠鏡はハンドバッグに入れていたのだろう。
 また宿泊や輸送・通信体制は、どうだったのだろうか? 明治8年の内国通運会社の発足により、宿駅や人馬継立の輸送手段、定額等の宿泊規定ができて、全国どこでも安心して旅行ができ、郵便や電信網が全国にわたり着実に整備されつつあった。バードは、新潟と函館で妹らの手紙を確実に受け取っている。
 更に、通訳者伊藤は訪れた地の警察署に必ず立ち寄っているし、バードを見学する群衆などの時には警察官が警備している。これらのことから、バードの旅に関して明治政府の陰ながらの協力・支援があり、英国と明治政府との連携の強さがあったと考えられる。
 このように、未踏地の旅を成功に導いた要因を、小生なりに考えると次の6点である。
①最少限の装備と食料、そして通訳一名のみの同行者
②事前の価値ある情報を収集し、現地での的確な交渉と判断
③その土地の人々や生活・習慣を尊重し、自分の考えの控えめな主張
④整備された郵便と駅逓制度の普及とその活用
⑤通訳者伊藤の主人バードへの接し方と周囲に対するきめ細やかな配慮
⑥大英帝国の巨大な力を基にした日本政府と警察の監督保護や陸運の宿駅制度
 なお、バードが晩年になってから、「旅成功の秘訣」のインタビューを受けている。命を賭けた中国奥地やペルシャの旅をも含めた食料や寝具・衣類等、具体的な記録であり、バードの生き方を考える上でも貴重である<注5>。
<注1・2>イザベラ・バード著 時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行」 講談社学術文庫(上) 2008.4 P48,P82
<注3・4>イザベラ・バード著 時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行」 講談社学術文庫(上) 2008.4 P114,P287
<注5>イザベラ・バード 金坂清則編訳 「イザベラ・バード極東の旅2」 平凡社東洋文庫 2005.10 P114

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