社長ブログ

社長ブログ特別編 第十二回

2010.09.22

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫
第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」
11 5回の来日とその後
 バードは、1878年(明11)に離日した後に、1894年2月から1896年12月の間に日本を5回も訪れ都合11ヶ月滞在しているという<注1>。また熊本城の写真を撮り、英国教会伝道協会(CMS)の女性宣教師ハンナ・リデルに会っているはずなのに、その行程が解明されていない<注2>。
 小生は4回の来日時を確認できたが、残り1回は未確認である。また、下記からも読み取れるように、注目すべきは日本から朝鮮と中国へ渡っていることである。
p10-1.jpg
来日1回目<1894年(明27.2)・63歳>
  カナダ~横浜、神戸~朝鮮、満州、天津、北京
来日2回目<1894年(明27.12)~95年(明28.1)・63歳>
  ウラジオストック~長崎、大阪、京都~朝鮮、上海、香港
来日3回目<1895年(明28.7~12)・64歳>
  香港~長崎、大阪、東京、伊香保温泉、日光金谷ホテル~朝鮮、上海
来日4回目<1896年(明29.7~10)・65歳>
  上海~横浜、日光金谷ホテル、日光湯元温泉~朝鮮~翌年1月英国へ
 1894~96年(明27~29)は、日清戦争(1894.7~1895.4)の直前・中・直後である。戦争という非常時に、日本を訪れたのはなぜなのだろう? そして離日後は必ず朝鮮と中国へ渡っている訳は何なのだろうか?
 小生は、バードの1878年の最初の来日目的は、旅行作家・探検家として開国間もない日本国内の情報収集を装った初任諜報者「007」であったが、その後の2~6回目の来日は、イギリスの重要諜報者「007」としての役割だったのではないかと推測している。
 なぜなら、憲法発布(1889)、条約改正(1894・日英通商航海条約)、三国干渉(1895・仏独露)、日英同盟(1902・締結、1905・継続更新、1911・継続更新)、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)等に関しての情報は、各国の外交を左右する的確な情勢分析が必要だった。そこでバードは、日本の各界の重鎮や政府役人との交流で情報を入手するのに適役だったと考えるからである。
 これらの来日時の著書は、今のところ発表されていない。しかし、「UNBEATEN TRACKS IN JAPAN」(2巻本・1878)の新版を、1900年にジョージ・ニューンズ社から出版している。これまでのジョン・マレー社から版元を替えて、序文と写真14点を新しく収録している。ビショップ博士と1881年3月結婚し、その5年後に夫は病死したが、イザベラ・L・ビショップの名前を使っている。
 京都大学大学院の金坂清則氏が「イザベラ・バード極東の旅1・2」(平凡社・2005)として編訳している。その中の「新版序文」で、バードは旧版の11年前と比較して、日本が変化していることと変わらないものを、次のように記している。
◇この光り輝き覇気に満ちた帝国[大日本]は、新奇な試みを次々に試すようなことはせず、賢明で先見の明のある革命期[明治維新]の政治家たちが30年前に定めた通りの方針に則って着実に進んできた。このことは疑いの余地がない。彼らの一部は今もなおこの国の運命を左右している。この20年の間、革命も、混乱も急激な反動もなく、新奇な試みを次々試すこともほとんどなかった。一歩一歩足場をしっかり固めて次の段階に進んできたので、すばらしく堅実な結果がうまれているのである。
◇すべてのものの真の進歩の礎となる教育改革が、思慮深くまた注意深く実施されてきた。特筆されるのは小学校と中等学校の教員のより万全な養成と京都帝国大学の設立である。
◇道路は等級に区分されてきたし、拡幅もされてきた。
◇鉄道建設も精力的に推し進められてきた。…日本の貿易は…社会の秩序は…。
◇[日清]戦争で中国に勝って以来、強い好戦的な気運が一般大衆を捕らえているし、政府は陸軍を倍増することによって不慮の事態に備えている。また、今や英国海軍に次ぐまでになっている海軍はいずれも最新の構造と装備を備えた多数の魚雷艇や駆逐艦・巡洋艦・戦艦によって急速に増強されてきており…。
◇国内の新聞は大きな力をもってきた。…以上述べたことは、20年の間に生じた変化のうちで特に目立つものである。
◇変わらないままのものもある。…熱烈で自己犠牲を厭わない愛国心、国家の長[天皇]への普遍性、祖先崇拝、家族愛、魅力的な礼儀正しさ、中・下層の人々の日常生活における神仏混淆的慣習…。
◇知識階級の青年はほとんどすべてが不可知論者である。…キリスト教が広がる見通しは、…明るくない。
<金坂清則編訳 「イザベラ・バード極東の旅2」 平凡社 P93~98>

そして、旅の記録を改訂せずに再度出版する旨を、次のように述べている。
◇主要都市でも、このような変化(建物や街路)が現れ始めてはいるものの、思ったほどではない。農村地域では、…交通機関が発達し、教育が高度化し、新聞が普及したとはいえ、人々の暮らしに生じた変化はごくわずかである。…これが、「人がよく訪れるところ」から隔たった日本の姿を非常に正しく伝えていると信じながら。
<金坂清則編訳 「極東の旅2」 P98>

 金坂清則氏は、「イザベラ・バード極東の旅1・2」(平凡社・2005)で、「この新版刊行がバードにとってたいへん重要な意味を有する」とし、極東の旅の成果としての旅行記は、「朝鮮奥地紀行」と「中国奥地紀行」の二部作でなく「UNBEATEN TRACKS IN JAPAN」の新版を加えて三部作であると捉えている<注3>。
 また、版元をこれまでのジョン・マレー社からジョージ・ニューンズ社に替えてまで出版する必要感は、何だったのだろうか。英国ではバードの内容に対して、ブラキストンとケプロンの批判があったにせよ、序文と写真14点を新掲載しただけなのである。
 マレー社は、バードが政治や軍事、宗教に関することを記述することを以前から嫌っていた。ジョージ・ニューンズ社が版元を引き受けたのは、写真掲載の新しい要素もあるが、新版はマレー社の省略された「普及版」の復活ではなく、「初版本」の復活であること、そして新版序文に、わずか数行であるが政治、軍事、宗教を記載したことと関わっていると小生は考える。
 なおバードは、これら5回の来日時にも、毎日記録を録っていたと思われる。何せバードは、毎日日記をつけるのが習慣なのである。恐らく諜報内容を、手紙として本国へ送っていたのではなかろうか。バードの手紙は、今もロンドンのジョン・マレー社とエデンバラのスコットランド国立博物館の2カ所に保管されているという。2~5回の来日での手紙が必ず存在し、バードの役割が明らかになると確信している。
小生の今回のバードウオッチングはここまでとし、朝鮮や中国、マレーシア、インド、トルコ、ペルシャ等については、将来のウオッチングとしたい。
 次章では、1878年の「山形路」を、現在と比較しながらウオッチングしていこう。
<注1・2・3>金坂清則編訳 「イザベラ・バード極東の旅2」 平凡社東洋文庫 2005 P93,
P297~299,P376~377
 社長ブログ特別編は、今回をもって一旦終了します。

« 社長ブログ 一覧 »