「つながり」と「間」
2018.10.26
白露や 茨の刺(はり)に ひとつづつ (与謝蕪村)
二十四節気の一つ、「霜降」の季節です。あの暑かった今年の夏が懐かしいぐらい肌寒い朝夕です。今朝の気温は4.8℃でした。何とも寒い!
会社ではクールビズが終了して一月。ネクタイの時期となりました。女性にはご理解いただけないでしょうが、首を布帯で締めるということは極めて苦しい行為だと思います。背筋がぴんと張って活力がみなぎると言う人もいますが、わたしは昔から苦手です。
若い頃は、いつも体育着を着て出勤し、休み時間はもちろん、授業中も体育着、全校教職員写真撮影も体育着でした。グラウンドや体育館で子ども達と遊んでばかりいて、よく教務主任や教頭から「学年主任は休み時間は職員室にいないとダメだ」と怒られました。子どもと遊んで何でダメなの? 多分、連絡や報告もあるのかもしれません。よくわかりません。その後も、ひたすら遊んでいました。
さて、あいかわらず学校における「いじめ」問題が深刻です。連日、マスコミで取り上げられます。未成熟な子どもだけでなく、社会人である大人の世界でも、パワハラ、セクハラ、アカハラ、マタハラ等々、日常茶飯のハラスメントです。他をいじめたいというのは生物的な本能で、それをどうコントロールするかが大事だとも言います。
9月に開催された「第57回県少年の主張大会」で、天童市立第三中学校3年の岩淵礼姫(あやめ)さんが最優秀になりました。「人生を駆け抜ける」という題名で、自分が受けたいじめの体験といじめ根絶への主張、願いです。こんなことを訴えています。
「今苦しくて悔しくて、もうこんな人生捨ててしまいたい。そう、思っているかもしれない。わたしもそうだった。でも、死んで何になる。あなたが死んでしまったら、どれだけたくさんの人が悲しむか考えて欲しい。あなたのたった一つの尊い命を捨てないで欲しい。
『生きていてよかった』そう思える日が必ず来るから、全力で生きて。逃げていいんだよ。人生は自分の努力次第でどうにでもなるから、今は自分の命を大切にして欲しい」(山形新聞より一部抜粋)
「限界まで追い込まれた」体験を持つ岩淵さんの訴えには、ワイドショーの薄っぺらなコメントとは違って心動かされます。
今年ベストセラーになっている新書に『友だち幻想』(菅野 仁 著)があります。菅野さんの考えには共感するところがたくさんあります。
一部紹介すると、
「共同体的な凝集された親しさという関係から離れて、もう少し人と人との距離感を丁寧に見つめ直したり、気の合わない人とでも一緒にいる作法というものをきちんと考えたほうがよいと思うのです」
「学校というのは、とにかく『みんな仲良く』で、『いつも心が触れ合って、みんなで一つだ』という。まさにここで私は『幻想』という言葉を使ってみたいのですが、『一年生になったら』という歌に象徴されるような『友だち幻想』というものが強調されるような場所のような気がします。けれど私たちはそろそろ、そうした発想から解放されなければならないと思っているのです」
「『自分のことを百パーセント丸ごと受け入れてくれる人がこの世の中のどこかにいて、いつかきっと出会えるはずだ』という考えは、はっきり言って幻想です」
「過剰な期待を持つのをやめて、どんなに親しくなっても他者なんだということを意識した上での信頼感のようなものを作っていかなくてはならないのです」
自分以外のすべての人間は「異質性を持った他者なのである」という前提に立って、他者との間の取り方、距離感を図りながら、賢く「共在」していくことの大切さを教えられたような気がします。(2018/10/26)