芋煮会の思い出 その1
2021.10.01
山形の秋の風物詩「芋煮会」。今年も新型コロナウイルスの影響で、「日本一の芋煮会フェスティバル」は中止になり、例年、大変にぎわう「山形市民プールジャバ」付近の河川敷も閑散としています。家で食べる「芋煮」もおいしいのですが、やはり、秋空の下、石を「かまど」にして、薪の火や煙モクモクの中、大人数で食べる芋煮会は、山形を感じる特別のイベントです。
そこで、今回は学校行事ではほとんど行われなくなった、学校行事としての「芋煮会」の体験を紹介したいと思います。
【小学校低学年時代】
低学年までは、私は天童市立成生小学校に通っていました。成生小の芋煮会は、通学班単位で実施され、リアカーに鍋や食材を積んで登校します。その後、学校から、全児童が一斉にリアカーを引っ張って、天童市と東根市の境を流れる「乱川」(大町付近)に向かいます。到着すると、広い河原の中、思い思いの場所に陣取り、「かまど」作りからスタートです。
「乱川」は乱川扇状地を形成する川です。成生小付近は、扇状地の先端の手前にあたるため、普段はほんの少ししか水が流れていません。奥羽山脈に大雨が降ると、平和な川は一転、川の名前の通り氾濫し、大量の土石を上流から運んできます。そのため、水が引き普段の状態にもどると、「かまど」を作るには十分すぎる石がゴロゴロ転がっています。
<参考まで>成生小のすぐ近くに「押切川」が流れています。その川でも「芋煮会」はできそうだったのですが、当時は日本中で「公害」が社会問題になっている頃。「押切川」も工場からの廃液が垂れ流しの状態で、悪臭を放つ白濁した水が流れていました。そのため、とても芋煮を食べる環境にはありませんでした(念のため、今は清流です!)。
当時は、まだ今ほど豊かではなかったので、食材はほとんど家にあるものでまかないました。里芋だけでなく、サツマイモなど、様々なものが入っていたと記憶しています。肉だけは買わなければなりませんでした。肉は贅沢品だったので、皆、楽しみにしていましたが、通学班6年生の特権で、少しだけ残した肉を、焼き肉にして食べている姿を、「口を出せる身分」ではない低学年の私たちはうらやましく見ていたものでした。
【小学校中~高学年時代】
3年生の夏に、天童市立第一小学校(現在の天童中部小)に転校しました。天童市の市街地にある学校なので、芋煮会をするような場所は近くにありません。そのため、転校後の4年間で、芋煮会を経験したのは1回だけでした。その奇跡的に行われた芋煮会は、6年生の時だったと思います。学校全体ではなく、学年行事として行われました。
場所は、なんと舞鶴山の北側にある「愛宕沼」です。当時は、今のように整備された沼ではありません。かつてあったゴルフ練習場ができる前、遙か遙か昔の話です。
沼を一周する小径の下は、草木で覆われた急な斜面になります。その斜面と沼の間に、かろうじて広がるジメジメした少し平らな土の部分。その幅約5m。「かまど」になるような石を見つけるのが大変で、少し離れたところにある崖から石を運んできた班もありました。湿った場所なので、薪に火がつきにくく、できた芋煮も立って食べたので、良い印象はありません。
「河原がないんだからしょうがない」と環境が違うことに、妙に納得した4年間でした。
※写真:本社近くの、住宅地に囲まれた小さな畑に咲くコスモス(9月21日撮影)