伊予の国へ② ~ しまなみ海道と松山城、絶景!驚き!の連続 ~
2024.11.01
重要な会議・懇親会も充実のうちに閉会し、出張も第2ステージへ。
フィールドワークは、松山市からタオルで有名な今治市近郊。しまなみ海道…松山城…。
松山市からR196号線を北上すること約60km。抜けるような秋晴れの下、車窓には美しい紺碧の瀬戸内海が広がります。また、大小様々な島が目に飛び込んできます。さらに、行き交う船舶の優雅なこと。山形での日本海沿岸ではあまり見られない光景に胸が躍ります。そして、貸し切りバスは高速道路へ。来島(くるしま)海峡大橋に差しかかります。世界初の三連吊橋といわれる橋げたの大きさに圧倒されながら大門のようなアーチをくぐり抜けます。まさに絶景です!
この「来島海峡」は日本三大急潮の一つで、流れは10ノット=時速10海里(約時速19km)もあるといいます。秒速にすると5m/sを超えます。水流としてはかなりの速さです。ここを一日1000隻もの船が行き交うのだそうです、驚き! 全長4kmにも及ぶ大橋を渡りきって、隣の大島にある亀老山展望公園(標高301m)へ。眼下には、渡ってきた3つの大橋が雄大な自然に囲まれて…。これまた絶景!
今治から尾道までの島々をつなぐ「西瀬戸自動車道(高速道路)」が、通称「瀬戸内しまなみ海道」です。リーフレットに寄ると、「西瀬戸自動車道は本州四国連絡橋3ルートのうち一番西側に位置し、広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ延長46.6kmの自動車専用道路で、一般国道317号の新設・改築事業として建設された」のだそうです。いろいろ調べてみると、当初1973年(昭和48年)に他のルートとともに着工される予定でしたが、石油ショック等により着工が延期されたり、サイクリングロードを視野に入れた国土交通省による諸島々内の一般道路整備等が進められたりと、最終的に全長59.4kmの「瀬戸内しまなみ海道」は着工から31年を経て全体が結ばれたということです。31年という年月(私の人生の半分)を想うと、驚き! です。
約400年前に築城されたという「松山城」。
標高132mの勝山山頂に位置し、別名を金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)とも呼ばれています。この「松山城」が、東北は福島県の会津や山形県の上山と縁が深かったことをご存じでしょうか。実は、私も訪れて初めて知りました。JR松山駅の旧駅舎の一角に「喜多方ラーメン」の店の看板を見つけ、「どうして、福島の喜多方ラーメンが愛媛松山に?」と思ったのがきっかけです。
高台にある松山城へは登城道を歩いて30分は必要とのことでしたが、松山城山ロープウェイ・リフトですと数分乗って10分程度歩けば到着です。ですが、私の右踵はすでに悲鳴を上げておりました。同行された部長さん、課長さんらにご迷惑をおかけしながらの登城です。ともあれ、無事に本丸に到着。天守の観覧には1時間弱ほど必要でした。天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、江戸時代最後の完全な城郭なのだそうです。急角度の階段、黒光りする太い柱や梁、そして床面。また、現存する12天守(姫路城、彦根城、松本城、犬山城、松江城ほか)の中で唯一、築城主として瓦に「葵の御紋」が付されています。これも驚き!
天守内に設置してあるガイダンス動画にて、その歴史の一端が耳に入りました。
初代城主は、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで七本槍の一人として加藤清正に並ぶ有名な加藤嘉明とのこと。ところが、着工から25年の松山城の完成を目前に、会津への転封(大名の配置換えのこと)となったというのです。ここで、会津との深い関係に納得!(だからといって、喜多方ラーメンが駅前にあることと関係があるかは不明のまま(笑))さらに、転封された嘉明に代わって入封したのが、なんと出羽国上山藩主であった蒲生忠知であったというのです。えっ、上山藩?…現在の山形県上山市?…確かに上山藩の第二代藩主(四万石)に蒲生忠知氏の名前を見つけました。松山と1000km以上も離れた東北との関わり、みちのく山形との関わりを知り、これまた驚きでした!
“松山や 秋より高き 天守閣 (正岡子規)”
このたびの出張は、晴天に恵まれるとともに「密度の濃い会議」を通して教育環境支援のあり方を学び、「フィールドワーク」を通してたくさんの「驚き」を得ました。まさに、「百聞は一見にしかず」「百見は一験にしかず」の貴重な時間となりました。お世話になりましたすべての方々に、そして、出逢ったすべての事柄に感謝しています。<令和6年11月1日 NO.16>