歌に満ちる、かけがえのないひととき ~ 小椋佳「歌紡ぎの会」の余韻 ~
2026.11.04
先日、各地でコンサートを続けている82歳の小椋佳の「歌紡ぎの会」に足を運びました。
長年親しんできた歌の数々に耳を傾けながら、改めて、その魅力の深さを実感しました。懐かしい。心地よい。そして、なぜか胸の奥がじんわりと熱くなる。けれども、その感動を言葉にしようとすると、うまく表現できません。歌詞がいい、メロディがいい、歌声がいい。それだけでは、とても言い尽くせないのです。歌に包まれているうちに、心の奥にしまっていた思いがそっと呼び起こされ、いつしか自分自身の人生を振り返っている。そんな不思議な時間でした。
「歌紡ぎの会」という名前にも、心を引かれます。歌を披露するだけではなく、歌と語りを通して人生を紡いでいく。そこには、長い年月を生きてきた人だからこそ伝えられるものがあるのでしょう。小椋佳は、銀行員として社会の現実に身を置きながら、歌をつくり続けてきました。異なる世界を歩んできた経験も、人間や社会を見つめる独自のまなざしにつながっているのかもしれません。しかし、経歴を知るだけでは、あの歌の深みには届きません。日々の暮らしの中で感じたこと、出会いや別れ、喜びや寂しさ。そうした人間の営みを、自分の言葉とメロディに託してきたからこそ、聴く人の心にも自然に入り込んでくるのではないでしょうか。
例えば、「シクラメンのかほり」。花の名を耳にしただけで、ある時代の空気や、誰かとの思い出がよみがえる人もいるでしょう。歌詞は変わらないのに、若い頃と今とでは、心に響くところが違ってきます。かつては恋の歌として聴いていた一節が、今では過ぎ去った時間や、人との出会いと別れを思わせる。歌の中に、自分の人生を重ねられる余白があるからなのかもしれません。文学でも、すべてを説明し尽くす文章より、短い言葉や一つの情景が、かえって深い余韻を残すことがあります。小椋佳の歌にも、そんな魅力を感じます。言葉が多くを語らないからこそ、聴く人の心が語り始めるのです。そして、その言葉を支えているメロディも忘れられません。歌詞の意味を一つひとつ考える前に、なぜか心が動いてしまうことがあります。小椋佳の歌では、旋律が言葉に寄り添い、言葉だけでは伝えきれない思いをそっと受け止めているように感じます。音の高低や長短、繰り返しと変化。そこには数理的に捉えられる音楽の構造があります。規則性が安心感を生み、思いがけない変化が心を揺さぶる。しかし、どれほど音楽を分析しても、感動のすべてを説明することはできません。音の響きに、その人の記憶や経験が重なったとき、初めて生まれるものがあるからです。
同じ時代を彩った谷村新司の歌にも、心をつかんで離さない魅力があります。「昴」の壮大な旋律に耳を傾けると、目の前の日常から遠くへと視線が広がり、人生という長い旅を思います。「遠くで汽笛を聞きながら」には、孤独や挫折を抱えながらも歩み続ける人の姿が浮かびます。谷村新司の歌が、私たちを広い世界へと連れ出してくれるものだとすれば、小椋佳の歌は、自分の心の奥へと導いてくれるものなのかもしれません。もちろん、二人の魅力を簡単に分けることはできません。それでも、表現の違いを感じながら聴くと、音楽が私たちの心に届けてくれるものの豊かさに、改めて気づかされます。
歌は、ひとりの人間の思いから生まれながら、やがて多くの人の人生に寄り添うものになります。小椋佳が手がけた「愛燦燦」も、谷村新司の「昴」も、世代を超えて歌い継がれてきました。同じ歌を聴いても、思い浮かべることも感じることも違います。人は誰もが、それぞれの人生を生きています。その違いを抱えたまま、同じ歌に耳を傾けられるところに、音楽の大きな力があるのだと思います。アンコールで聴いた名曲「山河」も忘れられません。コンサートを終えて、心に残ったのは、歌い続ける小椋佳の姿と、その歌を聴く自分自身の人生が、どこかで重なったような感覚です。これまで出会った人、過ごしてきた時間、うれしかったことも、心残りも、今となってはかけがえのない人生の一部です。若い頃には気づかなかったことが、年月を重ねて初めてわかることもあります。歌もまた、人生とともに意味を変えていくのでしょう。だからこそ、何十年も前の歌が、今の自分に新しい言葉を語りかけてくれるのです。
歌に満ちる、かけがえのないひととき。
それは、過ぎ去れば消えてしまう時間ではなく、心の中に静かに残り、これからの日々を支えてくれる時間なのかもしれません。名曲とは、懐かしい過去を思い出させるだけでなく、今の自分に新しい何かを気づかせてくれるものなのでしょう。小椋佳の歌に触れ、そんな思いを胸に刻んだ夜でした。<令和8年11月4日 NO.64>