「徳の交わり」は今も生きている
2008.08.26
庄内に行って来ました。山形はひどい雨、楯岡の最北支店の仕事を済ませ、新庄へ。新庄に近づくと明るくなって、大雨注意報は間違いでは、と思わせる天気。きのうは大雨で崖崩れが起きたという47号線を、酒田に向かいました。覚悟した割には雨も降らず、ときおり陽が差したりして、鳥海山も見えました。
次の朝、庄内支店に向かう前に、南州神社に参拝しました。南州神社は、西郷隆盛を祀る神社です。「南州神社」の大きな看板を左に入り、石鳥居をくぐると、正面に、探していた「徳の交わり」の銅像が見えました。
「徳の交わり」の銅像は、以前、鹿児島を訪れたとき、武(たけ)町の西郷屋敷跡に建てられていたものを見てきました。それが、酒田にもあるというのです。左に臥牛翁(菅実秀)が座し、右に南州翁(西郷隆盛)が腕組みをして座っている2人の銅像です。
庄内藩は、戊辰戦争を最後まで戦いましたが、奥羽越列藩同盟は崩壊し、会津藩も破れ、庄内藩はついに降伏しました。江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり、庄内藩は厳しい処分を覚悟していました。しかし、庄内攻めの総大将黒田清隆は公明正大、極めて寛大な処置をしました。その裏には、新政府軍司令官の西郷隆盛の指示があったのです。
藩主酒井忠篤(ただずみ)をはじめ、庄内藩はいたく感激し、以来、西郷隆盛を師と仰ぎ、たびたび鹿児島に藩士をおくり、教えを請いました。庄内藩の家老、菅実秀(すげ さねひで)も鹿児島を訪れて西郷と語り合い、2人は肝胆相照らす仲となったのです。
西郷隆盛と庄内藩の交流はその後も続きます。不幸にも、西郷隆盛は西南戦争に巻き込まれていきます。その時、庄内藩から勉強に来ていた、伴兼之20歳、榊原政治18歳の2人は、西郷の帰郷の勧めを断り、戦いに加わって戦死しました。2人は、鹿児島の南州墓地に今も眠っています。
西郷隆盛に学んだことをまとめた本があります。『西郷南州翁遺訓』です。これは、庄内藩士が聞き取った西郷隆盛の言葉を、明治22年、菅実秀が一冊にまとめ、出版したものです。訪れた朝、資料館の方が私たちをみとめて、『西郷南州翁遺訓』をくださいました。
西郷隆盛を人生の師と尊敬する実業家がいます。京セラ、KDDIの設立者、稲盛和夫氏です。氏は、『西郷南州翁遺訓』二十四「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」を座右の銘とし、『敬天愛人』を京セラの社是としました。
もうすぐみなさまにお届けする当社広報誌『教育フロンティア』秋号、「学校キラリ」に鶴岡市立第二中学校が登場します。西郷屋敷のある学校、鹿児島市立武中学校と姉妹校の交流を続けている学校です。「徳の交わり」は、今も生きています。