社長ブログ

基は心の実

2008.09.22

前回、突然、渡辺崋山が登場してしまいました。それには訳があるのです。渡辺崋山はみなさんご承知のことと思います。寛政5年(1793年)、江戸麹町田原藩邸に生まれました。画家であり、蘭学者であった崋山は、天保3年(1832年)には、田原藩家老となりました。
田原藩といってもあまり有名ではありません。私は、ずっと、「田原坂」があるところが、田原藩だと思っていました。「田原坂」は、熊本県民謡『田原坂』で有名です。ちょっと変わった民謡で、若い頃、よく歌っていました。
 雨は降る降る 人馬は濡れる 
 越すに越されぬ 田原坂 
 右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 
 馬上ゆたかな美少年
田原坂は、西南戦争最大の激戦地です。西郷隆盛は、ここから逃れ、半年後に、鹿児島の城山で自刃します。でも、田原藩は熊本県ではありません。今の愛知県田原市、渥美半島にあった小さな藩です。なぜか、田原藩と「田原坂」が結びついてしまいました。
それは、「田原」が同じだけではないようです。どちらも自刃して果てた、私の好きな歴史上の大人物がいたからなのかも知れません。田原藩の渡辺崋山は、天保10年の蛮社の獄でとらえられ、天保12年に自刃してしまいます。
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酒田が生んだ偉大な儒学者、伊藤鳳山は、渡辺崋山に認められ、田原藩のお抱え学者となります。崋山は、鳳山より13才年上。自ら儒学も蘭学もできた男が惚れた学者が伊藤鳳山でした。渡辺崋山、伊藤鳳山、鈴木春山は、「田原の三山」といわれていました。
伊藤鳳山については、またの機会にお話ししたいと思いますが、鳳山は、崋山を慕い、蛮社の獄で蟄居を命じられた彼の面倒を見ます。食うにも困る崋山に絵を描かせ、それを金に換えて届ける、そんなこともやっていたようです。
家老であった渡辺崋山は、藩政改革に取り組みます。優秀な藩士の登用や田原の殖産振興につとめ、天保の大飢饉では、一人の餓死者も出さなかったそうです。その渡辺崋山の藩政改革こそが、「国民目線に立つ政治」であり、「国民の生活が第一」でありました。
政治を行う者、「国民目線に立つ政治」や「国民の生活が第一」と考えることなど、全く当たり前のことです。渡辺崋山にしても、上杉鷹山(7月25日号)にしても、国を治める基に、領民の命を守り、安全を守り、生活を守ることがありました。
『八勿の訓戒』の最後は、「基立て物従ふ基は心の実という事を忘する勿れ」。しっかりした基礎があれば皆安心してついてくる、基礎がしっかりしているということは心が誠実であるということだという意味。いつの時代でも、政治家は、いつも、自分のためではなく、人のためを考えている、誠実な人であります。

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