社長ブログ

社長ブログ特別編 第三回

2010.07.23

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~
第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」
2 バードは小柄な体格
 2009年(平成21)6月に開催された「イザベラ・バード文学散歩の旅 山形路紀行」のシンボル旗は、バード50歳の肖像である(写1)。フリー百科事典「Wikipedia」のもので、バードが離日して3年後の1881年、ジョン・ビショップとの結婚直前のものである。旅行家・探検家にふさわしく、凛々しく見える。p2-1-1.jpg
 バードのイメージは、高梨健吉訳の「日本奥地紀行」初版の写真が一般的である(写2)。英国王立地理学会特別会員として、上品な貴婦人のポートレートである。しかし、晩年の姿とは言え多くの国の未踏地を馬や徒歩で駆けめぐった人には見えない体格である。
 バードの実際の体格や容姿は、どうだったのだろう? 小生は、バードは元々小柄な体格だったと推察する。その理由は、次の4つの資料からである。
①「日本奥地紀行」の第26信の「大館」での「蓑笠姿」の絵が物語っている(図1)。原注に「蓑と笠と全身の姿はわたし自身をスケッチしたものであるが、顔は日本の若い女性に似せてある」とあるからである。なお、この図は、2000年(平成12)刊行の「日本奥地紀行」第2版(高梨健吉訳・平凡社ライブラリー)のカバーデザインに使用されている。
②紀行文の随所で、馬の乗り降りや歩行のようすが身軽な立ち居振る舞いと読みとれる。特に、雨天時の悪路や急峻な峠道での馬の操り、洪水の中小さな川舟での渡りなどでは、地元民さえ難儀しているのに難なく踏破していくのである。持病とされる脊椎の痛みは、たまに起きるが大きな障害にはなっていない。
③バードが日本で撮られた写真は、1896年(明29)7月、来日5回目65歳、横浜ファルサーリ商会のものだけである(写3)。この写真は、現在も日光金谷ホテルに掲額されており、細身である。写1・2・3を比較すると、1904年(明37)72歳で生涯を閉じる晩年になって、少し太り気味になったのだろうか。
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④1890年11月のトルコのエルズルム(写6)や1895年3月中国の汕頭(すわとう)での写真である(写5)<注1>。馬上や写真機と一緒に撮っているバードの体格は、馬の大きさや写真機の三脚の高さ、周囲の男性の体格からみても小柄であったと言える。三脚の大きさから見て、身長は150㎝程度だったのではなかろうか。これらの写真は、残念ながら日本での写真ではないが、バードの実際の旅の服装や様子を知る上で貴重なものである。
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 写真や挿絵は、紀行文にとって重要な要素である。バードはスケッチを得意としており、日本の紀行文でも、多くの挿絵を採り入れてきた。バード自身が写真機を愛用するのは、1892年(明25)からである。工芸学校で写真技術を学ぶなどして、旅行写真のパイオニア的と評価されている。その頃は、自分がやってきたスケッチの有用性を、次のように言明している。
「今までに写真ほど私を夢中にさせたものはなし」「お金のかからないスケッチは、旅行記には欠かせません。私が撮った写真を使うつもりはありません」
<O・チェックランド著 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 P224>

 しかし、その後「イザベラ・バード極東の旅1・2」では、自分が撮影した多くの写真を活用し臨場感を出している<注2>。日本では東京・岐阜の孤児院や中禅寺湖を撮っている。これまでの上記のような考え方は、写真のリアリティと便利さの魅力には勝てなかったのだろう。
 このように、バードに関する写真6枚を関係書籍から見つけ出したが、不明なこともある。例えば、写4と写6はチェックランドの同じ著書で同じ1890年の説明なのに、体格・容姿等が全く別人のようである。写6は写1とも似ているが、掲載か説明のまちがいなのだろうか。これからの分析が必要である。
<注1> O・チェックランド著 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 日本経済評論社 1995 P214、P248
<注2> イザベラ・バード著 金坂清則編訳 「イザベラ・バード極東の旅1・2」 平凡社東洋文庫 2005

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