社長ブログ

どこに行ったの? 「結城よしを」の歌碑

2019.08.26

 炎天を 槍のごとくに 涼気過ぐ  (飯田蛇笏)
「炎熱の天(「そら」と読んでください)白雲わく」そんな感じの8月でした。いやあ、暑い! 暑い! 外に出ると、熱風が肌を焼く感じです。寒いのが苦手、暑いの大好きな自分ですが、さすがに参りました。
0010826%20%28220x124%29.jpgさて、会社の夏休み9連休も終わりました。社員の皆さんは家族旅行やゴルフなどで楽しく過ごされたことと思います。自分はどこへ行くこともなく、墓参りが唯一の遠出でした。それでも暇をもてあまし、家にも居場所のない自分は暑さの中、徘徊散歩であっちへ行ったりこっちへ行ったりで夏休みを過ごしました。
散歩コースの一つに霞城公園があります。つい先日まで知らなかったのですが、霞城公園の住所は「霞城町」だそうです。定住者が一人もいない不思議な町です。公園内には様々な建物がありますが、山形市郷土館もその一つです。ちなみに住所は「霞城町1?1」です。「1丁目1番地」ですよ!
郷土館は明治11年に竣工されて以来、長く山形市立病院済生館として使用されてきました。昭和44年に現在地に移築された「旧済生館本館」は、14角形の回廊と三層の塔楼で形作られています。三層ですが4階建てだそうです。独特の形態です。明治初期の洋風建築の独特の美しさがあります。8月14日、その郷土館をめざし炎天下、遠回りしてのウォーキングに出ました。
0020826%20%28124x220%29.jpgところで、なぜ郷土館に行ったかというと、あることが知りたくてそれを教えにもらいに立ち寄った次第です。現在、郷土館には顔見知りの退職校長先生が3人嘱託としてお勤めになっています。ちょうどO先生とI先生がおいでになり、しばらく教職退職後の話に花を咲かせてきました。
さて、肝心の「あること」ですが、霞城公園内にあるという『結城よしを』の歌碑を見たくて、その場所を知りたかったのです。2人にお聞きしたところ、公園地図には旧児童文化センター跡地に印があるので、そこなんじゃないかと教えられました。これまでもよく通ってきた場所なのに、そんな大きい石碑があったかなと思いながら郷土館を後にしました。
翌15日、歌碑の在処をめざして霞城公園を再訪。まっすぐ旧児童文化センターを跡地に行ってはみたものの周りにはロープが張られ、草は生い茂り、歌碑らしきものはまったく見えません。おかしいなと思い、公園の管理事務所前の案内板を見ても、やっぱり同じ場所に歌碑はまちがいなく存在している。でも、実際はない。あちこち行ったり来たり…。
と、思い出したのが、現在山形支店役員のT先生が、山形四小の校長時代に霞城公園からグラウンドに碑が移設されたという話です。そう言えば、結城よしをは山形第四尋常小学校を卒業した人だった。歌碑はまちがいなく四小にある。
そして、翌16日、四小まで出向き、ようやく歌碑に対面しました。蔵王山の立派な石にはめ込まれたレリーフには、結城よしをの代表作『ないしょ話』が力強く、流れるような書体で刻まれていました。
0030826%20%28220x124%29.jpg「結城よしを」は、南陽市宮内出身の詩人です。大正9年(1920年)生まれ。両親の健三とえつはともに歌人です。山形市立第四尋常小学校を卒業すると、市内の本屋に就職。17歳で童謡誌を刊行、19歳で代表作「ないしょ話」を作詞し、レコード化されます。21歳で招集され、シンガポールやニューギニアなど各地を転戦、昭和19年に24歳の若さで戦病死しました。「ぼくの童謡集を出版してください」が最後の言葉だったそうです。
『ないしょ話』という童謡は、大正時代の「赤い鳥」運動を想起させる、今聴くと何とも古めかしい歌です。しかし、今の社会状況、人間関係、特に親と子の関係を考えると、忘れてはいけないとても大切なことが謡われているような気がします。終戦74年経った記念の日に思いました。
「ないしょ ないしょ 
 ないしょのはなしは あのねのね 
 にこにこにっこり ね、母ちゃん
 お耳へ こっそり あのねのね
 坊やのおねがい きいてよね」

<追記>
結城よしをと親交を結び、いっしょに童謡集を発刊した山辺出身の童謡詩人に「武田勇治郎」がいました。代表作は『花のいろ』です。二人の交流については、本社発刊『やまがた人物風土記2』に、佐々木悦先生がくわしく書かれています。かれも戦争で健康を害し、復員後、あの済生館に入院、そして退院後、まもなく亡くなります。勇治郎も享年28歳という若さでした。戦争からは不幸しか訪れないですね…。(2019.8.26)

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