芋煮会の思い出 その2
2021.10.15
学校行事としての「芋煮会」の体験を紹介する企画の2回目です。
【中学校時代】
天童市立第二中学校での芋煮会は1年生の時に1回だけ実施され、その後はありませんでした。場所は、またも「乱川」(道満地区)。成生小の芋煮会の場所(大町)から、約4km上流の場所で、扇状地の真ん中にあたります。学校から約3kmの距離でしたが、ほとんど手で(リヤカーなどではなく)薪や鍋や食材を運んだことと、芋煮が完成した頃から雨が降り始め、寒い中、ずぶ濡れで芋を食べたので、辛い芋煮会として記憶にインプットされています。
【高校時代】
学校行事としての芋煮会はなく、部活動ごとに芋煮会が行われました。休日や土曜日の午後に、馬見ヶ崎川双月橋付近の河川敷で行いました。この時、我が家の食文化にはない、残った鍋に「うどん」を入れる食文化に出会い、衝撃を受けました。
※今は、「カレーうどん」にするのがポピュラーですが、市販のカレールウをそのまま入れることが多く、「塩分とりすぎ!」という感じで、個人的にはカレー味でない方が好きです。
【教員になってから:金井中時代】
学校行事としての芋煮会はありませんでしたが、山形養護学校との交流学習の一環として、昭和60年頃(記憶が曖昧です)に交流芋煮会が企画され、私が異動するまでは毎年実施しました。学校から会場の馬見ヶ崎川二口橋河川敷までは4kmの距離があったので、金井中の生徒は食材や道具を持って、現地集合、現地解散。山形養護学校の生徒は、往復、学校のバスでの送迎でした。
確か、昭和60年の芋煮会だったと思います。朝から曇り空だったのですが、薪に火がついた頃を狙うかのように雨が降り始めました。調理も終盤にさしかかった頃、「水だ! 水が来たぞ!」と叫び声が聞こえたので、その班の場所に駆けつけると、今まで水が流れていなかった場所のかまどを直撃するように「新しい川の流れ」が上流からやってくるではありませんか。水は容赦なく、調理途中の火を鎮火させました。火が消えてしまった班の多くは、すぐに別の場所にかまどを移して調理を再開しましたが、再開を断念し固い芋と口の中で格闘する班もありました。
芋煮会が終了しての帰路。学区に入るまでの約2km、歩道に生徒の長い列ができました。雨は相変わらず降り続いています。その中、よく見ると、雨でずぶ濡れの山形養護学校の生徒の姿が見えます。交流した班の生徒たちと一緒です。楽しく談笑しているわけでもありません。ただ黙々と一緒に歩いている感じです。結局、その生徒は山形養護学校までの4.5kmを歩ききりました。(当然、山形養護学校の先生が少し離れて見守るようについてきてくれています)
後に聞いた話ですが、元の学校で不登校気味だったその生徒は、芋煮会に参加したこと、山形養護学校まで歩き切ったことが自信になり、数日後、元の学校に戻り登校しているとのことでした。楽しく談笑しているわけでもなく、ただ黙々と一緒に歩いただけにしか見えない、どちらかというと地味で普通のことでも、本人にとっては大きなエネルギーになっていたのかもしれません。
芋煮会が持つ、不思議な力を目撃した瞬間でした。
※写真は愛宕沼(舞鶴山)西側の斜面に現れたカモシカの親子(10月2日午後3時撮影)