社長ブログ

薩摩のお姫様、篤姫と貢姫

2008.08.08

「天地人」は来年ですが、今年のNHK大河ドラマは『天璋院篤姫』です。私も毎週みておりますが、とても評判がよいそうです。篤姫は、ご存じの通り、薩摩藩島津家のお姫様から、将軍徳川家定の奥さんになりました。
新庄、戸沢藩には、篤姫の大叔母さんが嫁いでいるのです。この間、雪の里情報館の井上館長さんにお聞きしました。篤姫は、徳川家と日本国の歴史をつくりますが、戸沢藩に薩摩から輿入れしたお姫様は、戸沢藩と山形県の歴史をつくることになるのです。
篤姫の大叔母、貢(こう)姫は、13歳のとき、新庄藩10代藩主戸沢正令(まさよし)の正室となります。正令は、在位4年で死去、貢姫は桃令院となり、11代藩主正実(まさざね)が幼年であったので、補佐役となります。篤姫も14代将軍の補佐役でした。
幕末の新庄藩はとても大変だったのです。慶応4年、つまり明治元年、鳥羽伏見の戦いが起きます。そのきっかけは、庄内藩による、薩摩藩邸の焼き討ちでした。このことは、後に、薩摩と庄内の「徳の交わり」につながるのです。
新庄藩は、藩主の母、桃令院貢姫の実家が薩摩ですので、新政府軍に味方していました。ところが、庄内藩をはじめとして、東北地方は幕府方が多かったのです。新庄藩も加わり、「奥羽越列藩同盟」がつくられました。
この「奥羽越列藩同盟」、もし成功していたら、東北地方を中心とする日本国ができあがって、おもしろかったでしょうね。残念ながら、新庄藩のように心変わりをする藩があり、「奥羽越列藩同盟」は崩壊してしまいます。
桃令院貢姫、「新庄藩は新政府の味方よ」とがんばったのでしょうか、新庄藩が反旗を翻すと、庄内藩に攻め込まれ、新庄は灰燼と帰してしまいます。藩主正実と桃令院は、秋田(久保田藩)に逃げていきました。やがて新政府軍が攻めてきて庄内軍が退却するまで、70日間、新庄は、庄内藩に占領されてしまいます。
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桃令院が、そこまで読んでいたらすごいのですが、藩主正実は、「新庄藩のおかげでうまくいったよ」と新政府からほめられ、1万5千石も加増されます。次の年の版籍奉還では、知事にもなりました。戸沢藩はうまくいったのです。
天璋院篤姫は、薩摩藩を中心とする新政府軍から、最後の将軍徳川慶喜と江戸城、そして大奥を守ります。その戦いの相手が、かつての家来、西郷隆盛だったのです。篤姫は、明治16年、48才でなくなりました。
戸沢藩を守った篤姫の大叔母、桃令院貢姫は、篤姫よりも18才年上なのですが、明治24年、東京で亡くなりました。74才でした。

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