社長ブログ

吾無隠乎爾

2008.10.09

昨日の山形新聞夕刊にキンモクセイの記事が載っていました。「甘い香り深まる秋 『寒露』の県内」という見出しです。それで、5日の朝日新聞のコラムを思い出しました。
%E9%87%91%E6%9C%A8%E7%8A%80%EF%BC%90%EF%BC%92-1.jpg
「詩人の薄田(すすきだ)泣菫(きゅうきん)は〈ぢぢむさく、古めかしい〉と哀れんだ。一方で〈高い香気をくゆらせるための、質素な香炉〉と見立てているのは、ロマン派文人の感性だろう」
薄田泣菫のこの表現の意図を知りたくて、さっそく調べてみました。すると、便利ですね、インターネットで「木犀」と入力したら、「薄田泣菫木犀の香り」が出てきました。これが原典でした。中国宋代の詩人、書家、黄山谷を描いた短い文章で、こうです。
黄山谷は初秋のある日、晦堂老師を訪ね、論語の『吾無隠乎爾』の意味をたずねました。『吾無隠乎爾』は、「子曰、二三子以我爲隱乎、吾無隱乎爾、吾無所行而不與二三子者、是丘也」で、意味は、「先生が言われた、諸君は私が隠し事をしていると思うか。私は隠しだてなどはしない。私はどんなことでも諸君と一緒にしないことはない。それが丘(きゅう)[この私]なのだ」
黄山谷は、『吾無隠乎爾』(私は隠しだてなどはしない)の意味をたずねたわけですが、もちろん、文字通りの意味は分かっています。どう生きることが『吾無隠乎爾』なのか、常々考えて考えてたずねたのでした。
老師の答えがあまりすてきなので、原文を引用します。
 晦堂は客の言が耳に入らなかつたもののやうに何とも答えなかつた。寺の境内はひつそりとしてゐて、あたりの木立を透してそよそよと吹き入る秋風の動きにつれて、冷々とした物の匂が、あけ放つた室々を腹這ふやうに流れて行つた。
 晦堂は静かに口を開いた。
「木犀の匂をお聴きかの」
 山谷は答へた。
「はい、聴いてをります」
「すれば、それがその??」、晦堂の口もとに微笑の影がちよつと動いた。
「吾無隠乎爾といふものぢやて」
薄田泣菫はこうしめくくります。「木犀の花はぢぢむさく、古めかしい、金紙銀紙の細かくきざんだのを枝に塗りつけたやうな、何の見所もない花で、言はばその高い香気をくゆらせるための、質素な香炉に過ぎない」。でも、その香気は、「木犀の枝葉にたゆたひ、はては靡(なび)き流れて、そことしもなく漂ふうちに、あたりの大気は薫化せられ、土は浄化せられようといふものだ」
私は木犀が好きです。角を曲がる前から、「ああ、木犀が咲いている」とわかる、その姿が好きです。

« 社長ブログ 一覧 »