社長ブログ

電照菊

2008.10.21

沖縄に行って来ました。全国地方教育出版協議会出席のためです。地方において、教育にかかわる図書や教材などを出版している会社や法人が集い、研究協議を行う会です。毎年持ち回りで、今年は沖縄が開催県でした。
「地方教育界への奉仕」と「地方教育振興への寄与」を目的に、昭和34年に発足した歴史ある協議会です。児童生徒数の減少などの厳しい環境にありながら、子どもたちに優れた教材や図書を届けたいとがんばる仲間の姿に、互いに刺激され、元気になって帰ってくるのです。
沖縄はちょうど修学旅行シーズンのまっただ中、たいへんなにぎわいでした。空港もホテルもどこも修学旅行の学生さんでいっぱいでした。今どきの修学旅行って、飛行機に乗って遠くまで来て、すごいホテルに泊まるのですね。
このシーズン、修学旅行で沖縄を訪れるのは、平和学習が中心だそうです。沖縄は、地上戦の行われた唯一の地です。昭和20年、これは私が生まれた年でありますが、3月、「南方から押し寄せてきた約1500隻の米艦隊」が一斉に海から艦砲射撃を開始、沖縄地上戦が始まりました。
「3月26日、慶良間に強行上陸した米軍は、4月1日、読谷から北谷一帯にかけての西海岸から上陸を開始し、4月3日には島を東西に分断」しました。米軍は、「実戦部隊で18万余、後方支援部隊も加えると54万8000人にも及ぶ大部隊」、これに対して、「日本守備軍の兵力(本土正規軍6万5000)はきわめて劣勢でした」。
この沖縄戦は、6月23日、守備軍司令官の自決により、組織的な抵抗は終わりました。この日が沖縄慰霊の日です。「戦死者約20万余のうち県民の犠牲者は12万余」で、「正規の軍人より非戦闘員である住民の犠牲が多い」「戦史上きわめてまれなできごと」だそうです。
沖縄地上戦の前年、10月10日、アメリカ空軍の空襲により、沖縄は大きな被害を受けますが、特に那覇は市街地の9割を焼失しました。「4月1日に撃ち込まれた砲弾は、12センチ砲以上が5万4000発、ロケット弾が3万3000発、曲射砲弾が2万2000発」でした。以上、引用は、『沖縄をどう教えるか』(解放出版社)です。
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沖縄は、かけがえのない多くの命とともに、豊かな土地も奪われたのでした。会議のあったホテルの部屋の窓から、豊かに広がる沖縄の大地と東シナ海が見えました。少しずつ暗さを増す中に、たくさんの小さな灯火が見えてきました。
沖縄は、今、「電照菊」づくりが盛んなのだそうです。日が短くなり始め、ちょうど花芽を持つ時期に夜間光を当て、開花を遅らせ、正月用に出荷するのだそうです。沖縄の未来を拓く灯火が、少しずつあざやかになり、やがて大きな輝くグスクに見えてきました。

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