社長ブログ

社長ブログ特別編 第五回

2010.08.03

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~
第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」
4 訪日の目的と異国での旅行経験
 バードは、訪日の目的を次のように記している。
わたしは母国を離れて前にも効果のあった方法で健康を回復するよう勧められ、日本を訪れることにした。気候のすばらしさよりも、日本には新奇なものがとびきり多くあり、興味がつきないはずだという確信に惹かれてのことである。ひとりぼっちで療養する身にはこれがとても本質的なところで、楽しさと健康の回復をもたらしてくれるのである。気候にはがっかりした。とはいえ、日本はうっとりと見とれる国ではなく研究の対象となってしまったものの、興味は予想をはるかに超えた。
<時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行」 (まえがき P4)>

 訪日前年(1877)の秋、医者から健康回復を願って航海を勧められた当初の目的地は、ブラジルであった。メキシコ型の鞍を付けた馬で乗馬服を身につけ、アンデス山脈を駆けめぐりたいとの思いであった。先年のロッキー山脈紀行ブラジル版、ということだった。
 しかし、相談を受けたチャールズ・ダーウィン(「種の起源」研究者)が、日本行きを勧めている。日本は鎖国を解いて日も浅く、女性西洋人がまだ足を踏み入れていないし、新政府が西洋文化を積極的に採り入れていることや新奇なものが豊富だと、バードの興味と関心を煽ったようだ<注1>。
 バードが日本を訪れた訳は、本当にこれだけだろうか?
 上記の「まえがき」の文章は、か弱そうな裕福な療養目的の中年女性にしか映らない。しかし、小生には訪日が「健康になりたいと願う孤独な旅人の心を慰め、身体をいやすのに役立つ」からとは決して思われない。バードの著書を読み直し、バードが踏破した峠道を実際に歩いて、更にその考えが強くなった。なにせ、異国人女性一人が通訳一人だけをともなって、馬か徒歩で開国まもない未整備の道路や通信網、時には過酷とも言える連日約30㎞の行程での長距離移動の旅である。
 バードは日本での紀行文執筆を、マレー社から依頼されたが断っていた。しかし、アイヌ村を廻り函館に戻ってから考え直し、出版を承諾する手紙をマレー社に送っている。
私は当初、この国について本を書くことは不可能だと思いました。しかし、サー・ハリー・パークスが持ち前の性急さで私に手紙をくださり、ご自分や公使館の方々ができる限りの援助をしてくださるとおっしゃっるのです。サー・ハリーがおっしゃるには、私ほど北日本を旅したヨーロッパ人はほかになく、しかも私のたどった道はヨーロッパ人はほとんど通ってなく、普通の人が数週間旅するところを私は数ヶ月も旅している、ということなのです。…日本について本を書いてみようと決意しました。
<O・チェックランド著 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 日本経済評論社 P103>

 さて、バードが日本を訪れる前はどこを廻っていたのだろうか? 世界旅行を始めるきっかけは何だったのか? バードの履歴や活動事例から、考えてみる。
 バードは、1831年10月、イギリスのヨークシャーのバラブリッジで誕生。1904年(明37)10月イギリスで病没、享年72。父は牧師エドワード、母ドロシー、妹ヘンリエッタ。国教会の高位聖職者や議員を輩出している恵まれた家系一族である。
 父は、バードが幼少の折から乗馬で旅し、地理や歴史を自分の頭で考えることや物事を観察する力を育ている。そして最初のカナダ旅行に100ポンドを与え、自立の精神を期待している。母の家庭教育力は高く、作家の芽は幼少時から芽生えていると言える。
 バードは、1978年(明11)の初来日前に、次の国々を廻っている。
◇1854年(23歳)…カナダ、アメリカ
◇1857年(26歳)…アメリカ
◇1872年(41歳)…オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ(カリフォルニア)
 このように、バードが初めて外国を訪れたのは、23歳のカナダとアメリカである。そのきっかけは、18歳の時に脊椎腫・脊椎側湾症の手術を受けその後も病弱であったため、医師より海を渡り異国での生活を勧められたのである。
 また1869年には、バード家の主治医ムアに、「海の風にあたりなさい。一階に寝なさい。できれば一日のほとんどを船で過ごしなさい」と航海を勧められている。この当時イギリスの上級階層では、健康回復には転地療養や航海が効果的だとされていたのである。
 これら全ての海外の紀行文を、既に全てマレー社が次のように発刊している。
◇1856年(26歳)…「The Englishwoman in America」(イギリス女性のアメリカ紀行)
◇1875年(44歳)…「Six Months in the Sandwich Islands」(ハワイ諸島の6ヶ月旅行記)
◇1879年(48歳)…「A Lady’s Life in the Rocky」(女性ロッキー山脈生活記)
 ハワイ諸島の旅行記は旅から2年後に、ロッキー山脈の生活記は旅から6年後に出版している。バードのアメリカ・カナダ旅行での関心事は、宗教や貿易、統治制度等で、都市での宗教信仰の復興運動の調査が主であり、探検的要素は少なかった。それが、41歳のハワイ諸島の旅では、キラウェエア火山や標高4169mのマウナ・ロア山に登ったり、コロラドではロッキー山脈等の未踏の地に踏み込んだりした。異国での健康回復・療養目的のはずなのに、過酷と言えるほどの探検生活を楽しんでいる。
 その上見過ごしてならないのは、これら全ての著書が好評であり、旅行作家としての地位を築き上げたことである。紀行文として内容が動植物や社会の様子など多様多彩にわたり、鋭い観察で手紙文の形式をとった臨場感溢れる巧みな表現なのである。
 バードは、その日々に体験した出来事や見聞した風俗・自然の様子をこと細かに、その日の内に日記にしたためた。それらを手紙として、ふるさとスコットランドに住む妹ヘンリエッタや友人エリザ・ブラッキーらに送っている。手紙は旅先での感動や喜び、驚き、悲しみなどをありのままに記し、臨場感あふれる表現になっている。
 バードが帰国してからそれらの手紙を回収し、時間をかけて吟味し本にまとめるという手法である。この時代にとって、バード独特の手法である。現代のメディアからすれば、海外特派員の現地レポートをまとめたものと言えよう。妹らへの手紙が、全て捨てずに丁寧に保管されているのをみると、事前に打ち合わせされていたことなのだろう。
 なお、出版元のマレー社のジョン・マレイは、当初からバードの支援者だった。バードが23歳の時に出会い、23歳年上で父親のようにバードを育てた。例えば、バードの宗教に関する出版の夢を旅行記の執筆に改めさせている。また「イギリス女性のアメリカ紀行」の書名は、初めの「列車と蒸気船」案からマレイの助言で変わった。これらの指導助言がなかったら、旅行作家としての今日のバードはなかったろう。ジョン・マレイの死後も、子息がバードの出版を支えている。
 19世紀は陸や海の交通網が急激に発達し、ヴィクトリア王朝は大英帝国として全盛期である。イギリスは1875年にはスエズ運河を買収し、77年1月には英領インド帝国をたてている。
 それ故世界漫遊ブームがおこり、多くの人々が海外に出かけている。バードもその大勢の中の一人であった。なお当時の日本の状況は、1853年ペリーが浦賀にやってきて、各国が日本に開国を迫っていた頃である。
<注1> O・チェックランド著 川勝貴美訳 「イザベラ・バード 旅の生涯」 日本経済評論社 1995 P85

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