社長ブログ特別編 第七回
2010.08.18
明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~ 渋谷 光夫
第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」
6 在日外国人への厳しい旅行制限
幕末から明治初期の在日外国人の居留地や内地旅行の実態は、どうだったのだろうか?
明治政府は開国したものの、当初の開港場は横浜、長崎、東京、神戸、大阪、函館、新潟の7港だけであった。その上、外国人の居留地は、開港場から十里四方以内(半径25マイル・約40㎞)と、1858年(安政5)の条約で制限されていた。また内地旅行についても、外交官や一部の貴顕者を除いた一般の人は、政府発行の「外国人内地旅行免状」が必要であった。その免状の表には「寄留地名、旅行趣旨、旅行先及び道筋、旅行期限」が記され、裏には11款の心得、「各地方の規則を遵守すること、日本人との売買取引および諸約定は許可しない等々」があった<注1>。
バードは幸いにも「制限なしの通行証」を、パークス公使の力により手に入れた。その申請理由は「健康、植物調査または学術研究」のためとなっている<注2>。
それらの免状交付数は、1875年(明8)は1136名、1830年(明13)に1173名、1833年(明16)に1579名であり、日清戦争前の1893年(明26)には6806名に急増している。そのうちの約8割が英米国人であり、そのほとんどが箱根や富士山、日光、京都などの観光地巡りである。この規則での違反者は、年に数件のみで指定地外や無免許の旅行であったという<注3>。
旅行制限は、1874年(明7)に「病気療養」と「研究調査」という条件付けで解かれたが、1877年(明10)には、外国人の居留地外居住は再び厳しくなっている。それは、治外法権撤廃と内地通商の動きが絡んでいたからである。即ち、諸外国は領事裁判権を保持しつつ商売遊覧のための内地旅行の権利の獲得を目指しているのに対して、日本政府は治外法権を許したままの内地旅行、特に内地通商を阻止する構えだったのである。
また日本政府等に勤務している御雇外国人にも、1879年(明12)に大幅な内地旅行の自由が与えられたが、これらの規程は、1894年(明27)7月の「日英通商航海条約」締結まで続いていた。ただし、通行証承認の条件に通訳者の同伴と明記されているが、このような多数の外国人旅行者に対して、十分な通訳者を確保できていたかは不明である。
さて、このように厳しい内地旅行制限にもかかわらず、英米人が中心の日本研究団体が「日本アジア協会紀要」を1874年(明7)に創刊している。この機関誌には、初期の10年間に146本もの論文が発表されている。以下は、10巻までの主な地誌と紀行文の論文である<注4>。
第1巻(1874)◆E・M・サトウ「琉球覚書」「日本の地誌」
第2巻(1875)◆L・デシャルム「江戸草津往還記」◆C・ブリッジフォード「蝦夷紀行」◆C・W・ローレンス「常陸及び下総訪問記」◆C・H・ダラス「米沢方言」
第3巻(1876)◆C・W・セント・ジョン「仙台湾測量」「大和地方奥地への旅」◆J・A・リンド「江戸新潟往復記」◆L・デシャルム「新潟への二つの道」◆ヘールツ「1872年以降の長崎の気候」◆C・H・ダラス「置賜県収録」◆J・H・ガビンス「青森から新潟・佐渡へ」
第4巻(1877)◆R・N・ブロートン「沖縄島訪問記」◆R・ロバートソン「小笠原諸島」◆D・H・マーシャル「中山道経由の江戸から京都への旅」
第5巻(1878)◆R・ロバートソン「カロリン諸島」◆J・L・ホッジス「1872年8月の伊豆大島訪問記」
第6巻(1879)◆R・H・マクティ「江戸城」◆J・J・ライン「日本の気候」◆F・V・ディキンス, E・M・サトウ「1878年の八丈島訪問記」
第7巻(1880)◆P・V・ヴェーダー「東京から見える5つの山」◆J・サマーズ「大阪覚書」
第8巻(1881)◆R・W・アトキンソン「八ヶ岳、白山、立山」
第9巻(1882)◆ヘーレツ「箱根山の芦ノ湯の鉱泉」◆W・A・ウーレイ「長崎の歴史」
第10巻(1883)◆E・ダイヴァー「草津温泉覚書」
これらを見ると、いかに大勢の研究者が日本各地を訪ね、多採な論文を発表しているかが読み取れる。それは、日本各地の自然や文化についての在日外国人向けと母国への紹介である。
即ち、草津や京都、山岳などの観光地の他、長崎・大阪・新潟等の開港場との往復記、琉球や伊豆大島、八丈島等の離島研究である。
また、この紀要編集の中心的な役割を担ったのは、当時英国公使館のイギリス人アーネスト・M・サトウ(写1)である。彼は、紀要第1巻発刊前にも、次の新聞記事や著書を発表している<注5>。
◆ジャパン・ウイークリー・メイル紙の記事
・富士山の登山記(1872.2 明5) ・箱根から熱海までの旅行記(1872.3 明5)
・日光往還記(1872.3-4 明5) ・東京と京都の間の中山道往来記(1873.2-3 明6)
・多摩川渓谷の訪問記(1872.5 明5) ・大山参詣記(1872.12 明5)
◆「A Guide to Nikko」 メイル社 (1872.12 明5)
◆「A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan」<中部および北部の日本旅行案内> 初版1881(明14) 二版1884(明17)
◆回想録「一外交官の見た明治維新」
アーネスト・M・サトウは、1862年(文久2)6月に英国公使館の通訳生として来日し、1865年(慶応元)4月にパークス公使の下で通訳官として勤め、1868年(明元)1月に書記官となる。その後に日英外交に活躍し、1895年(明25)5月には日本駐箚特命全権公使、1900年(明33)8月清国駐箚清特命全権公使まで登りつめた人物である。日本人の妻を娶り、日本滞在は合わせて25年である。外交官の地位を活用して各地を訪れ、日本研究の先駆者・第一人者、日本を理解し海外に広めた優れた外国人の一人である。英和辞典を作成し、著作も上記の他多数である。
バードも、初来日で旅の準備等で世話になり、旅行中はサトウの英和辞典を持ち歩き、旅行後には紀行文の補足やまとめ等で指導助言を得ている。その後5回の来日や訪韓・訪中でもサトウの世話になり、生涯を通じての絆の強い仲間であった。
なお、当時、各国の外交官が来日している。横浜・東京だけでなく長崎や函館・新潟等の開港場にも駐在員をおいている。また外国商社や会社の進出も瞬く間であった。サトウ以外にも、多くの外交官や民間人が幕末や明治維新、日本見聞の様子を記録している。多くの会社から出版されており、次の著書も参考になる。
・「イタリア使節の幕末見聞記」 V・F・アルミニヨン著 大久保昭男訳 講談社 新人物往来社 1987
・「オランダ領事の幕末維新」 A・ボードウァン著 フォス美弥子訳 新人物往来社 1987
・「ドイツ公使の見た明治維新」 ブラント・M・V著 原潔+永岡敦訳 新人物往来社 1987
・「チェンバレンの明治旅行案内」 楠家重敏著 新人物往来社 1988
バードが、この外交官達と交流したかは、明らかではない。旅の出発にあたって、横浜・東京での滞在20日間だけでは、同じ欧州人と言えども時間を共有するのは厳しかったのではなかろうか。外交官らの日本観察の実際を、バードの観察と比較し、西洋国各国による交流の違いを、今後究めてみたいものである。
<注1・3>伊藤久子 「明治時代の外国人内地旅行問題?内地旅行違反をめぐって?」 横浜開港資料館紀要19 2001(平13)
<注2>時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」 講談社 2008(平20) P116
<注4・5>横浜開港資料館編 「図説 アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官」 有隣堂 2001(平13)