社長ブログ

社長ブログ特別編 第十一回

2010.09.15

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫
第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」
10 山形県内の旅程は7泊それとも8泊?
 バードが東北と北海道を旅したのは、3ヶ月と10日余りである。宿泊所が明らかなのは、横浜のオリエンタルホテルと東京での英国公使館とヘボン博士宅(ヘボン式ローマ字考案者)、日光の金谷邸(現金谷ホテル)、新潟でのファイソン邸(教会伝道会)、函館でのデニソン邸(教会伝道会)である。旧本陣とか大きな宿屋、現存している建物から福島県大内宿の「美濃屋」(阿部家)のように判明しているものもあるが、大半は不明である。
 バードは、宿泊した宿屋の名前をなぜ明記しなかかったのだろうか? あれだけ詳細に記録を採っているのに、宿屋名を書かないのは不可解である。1875年(明8.11)「外国人が宿泊できるのは旅籠渡世の者」の規制を受けて宿泊した一般の宿屋が規則違反の迷惑を避けてたとすれば、宿場町や温泉町での大きな宿屋名は記しても良いはずである。ただし、この規程は「旅館でなく民家でもよし」と1878年(明11.9)には改正されいる。
 バードが宿屋名を書かない訳は、出版にあたって手紙を書いた日付と場所がわかれば宿屋を記録する必要性がなかったからだろうか。それとも宿屋の部屋や接遇の様子を、ありのまま詳細に記しているので、個人情報の保護の観点から意図的に避けたのだろうか。
 ところで、このバードが宿泊した所を記載していないことでは、山形県内における行程に「ズレ」が出ており、日程と宿泊地に「謎」が残る。即ち、「小松で日曜日を過ごした」とあり、次の日曜日21日には「神宮寺で日曜日を過ごしました」とある。小松での日曜日からの一週間に、9泊したことになっている。2泊多く、宿泊地が不確実なのである。
 バードは、日曜日を頑なに「安息日」としており、旅行中でも休憩・休息の日である。父エドワードは「安息日」を守る信念が強く、バードも幼年時から受け継いでいる。
 この紀行文では、宿泊地がどこであるかや日程のズレは、文学上大きな問題ではない。しかし、紀行文中で2泊多い「謎」を解明するために、次の記述を参考として考えてみる。
◆「お祭りらしく、どの家にも提灯と旗があり、おおぜいの人々がお寺の境内に群がっています」(P323)
 上山の石﨑神社のお祭りであろう。当時は旧暦6/15が祭礼日であったが、新暦では7/14の月曜日にあたる。
◆「同じようにすばらしい道路を3日旅して60マイル(96キロ)来ました」(P328)
 96キロは前日の夏刈から金山間になる。夏刈~赤湯~上山の旧米沢街道は、県令三島通庸が新道整備中で、完成直前の坂巻川の常盤橋を褒め称えている。山形から北の天童~楯岡~新庄~金山間は旧羽州街道大名の参勤交代路であり、神町や東根には松並木があり、 バードにとってこのような道は日光街道以来である。
◆「翌日の旅も前と同じ立派な道路を通って、23マイル(約37キロ)を超すきょうの旅」(P333)
 上山から楯岡間の距離にあたる。
◆「新庄では…蚊に刺されないようベッドに入るしかありませんでした」(P334)
◆「上等の道路は終わってしまい、前のように難儀な旅がはじまりました。けさ新庄を発ったわたしたちは険しい尾根を越え、たいへん美しくて変わった盆地に出ました」(P334)

 上等の道路は新庄までとなり、P328の記述と矛盾してくる。盆地は金山を指すのであろうが、上台峠は険しい尾根ではない。
◆「金山に着いたのは正午という早い時刻だったもので、一両日ここに滞在するつもりです。…鶏を調達してきてくれました! …ふた晩休憩できるきれいで静かで衛生的な宿屋は…ここに泊まらざるをえなくなりました」(P334~335)
 正午に着くには、新庄からの3里が妥当。金山での2泊するつもりとは願望であって、実際は1泊だったのではないかと思われる。
◆「7月18日、虫に刺された跡があんまり熱をもって痛むので、昨夜わたしは喜んで新庄の日本人医師に往診してもらいました。…わたしはノソキ医師を夕食に招待しました」(P333,338)
 7月18日とあるので金山と思えたが、昨夜とあるので診察と夕食接待は新庄でのことであろう。新庄と金山での時間系列が混在している。
◆「宿の亭主と戸長つまり村長が夕方わたしを正式に訪ねてきました」(P338)
 金山にて。
◆「金山の戸長と長く語らったあと、朝とても早く…6時40分に出発しましたが…」(P344)
◆「主寝峠とサカツ峠を越え、12時間かけて踏破した距離は15マイル(約14キロ)」 (P345)
◆「翌朝見事な杉並木の下の湿地を9マイル…湯沢に着きました」(P347)
◆「横手で毎週木曜日、去勢牛…夕食にステーキを…ところが着いてみると、肉は売りきれ、卵はひとつもなく…」(P352)
◆「神宮寺に着くと、…そこで日曜日を過ごしました。…日曜日の朝5時に…」(P361)
<時岡敬子訳 「イザベラバードの日本紀行」 講談社>

 バードは、平地を馬で連日7~9里も進む。宇津峠や雄勝峠では6里が精一杯である。釜澤克彦氏<注1>や金沢正脩氏<注2>も、日程と宿泊地を特定できないとしている。これらのことや距離数を考慮し、私なりに次のように推測した。
p9-1.jpg
 このように、釜澤氏と金沢氏は小松は1泊で、14日を移動日と考えている。筆者の案は金山は1泊で21日の日曜日を移動日と考えた。バードは、横手での宿屋が好ましくないため連泊を避けようと、日曜日に旅をしたと書けないので、このような混在した記述になったと考える。
 「安息日」に旅の移動をしたと書けないキリスト教徒としての事情によるのだろう。あるいは、バードの記憶違いか、日記のつけ間違いによるものなのかは定かではない。
 バードの旅が始まって、既に一ヶ月過ぎている。47歳、旅の達人でも、連日約30~40㎞の馬での道中である。虫さされなどで医者の治療が必要になる程に、疲れも出てきたのだろう。
<注1>釜澤克彦 「イザベラ・バードを歩く?『日本奥地紀行』130年後の記憶」 彩流社  2009.6 P48
<注2>金沢正脩 「イザベラ・バード『日本奥地紀行』を歩く」 JTBパブリッシング 2010.1 P5

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