社長ブログ

社長ブログ特別編 第九回

2010.08.30

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~   渋谷 光夫
第1章 イザベラ・バード 旅行の「達人」・友愛の「国際人」
8 近距離ルートをとらない訳
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 「UNBEATEN TRACKS IN JAPAN」は、横浜に着いた5月21日からの紀行文である。その3週間後の6月10日には、北海道のアイヌ村を目指した旅が始まっている。バードの旅程は、往路は陸路を人力車・馬・徒歩・川舟で、復路は函館~横浜間の海路<図1>を、通常48時間のところ台風のために72時間かかっている。
 この旅程図をみて、最終目的の北海道へ渡るのに不自然な遠回りになっていることで、次の3つの疑問を持った。
①北海道に向かうには距離の短い奥州街道を通るのが普通なのに、なぜ新潟に向かったのか?
②福島の大内から北へ向かうには、会津若松や米沢を通るのが普通なのに、なぜ坂下・野沢に向かったのか?
③新潟からは村上・鶴岡・酒田を通って秋田に向かうのが普通なのに、なぜ日本海沿いの浜街道を避けて、山形を目指したのか?
 まず①の疑問点は、2008年に発刊された時岡氏の「日本紀行」で謎が解けた。新潟から船で北海道へ渡る当初の計画であったが、実際には蝦夷行きの汽船が一ヶ月近くもないことがわかり、新潟で陸路約720㎞の計画変更したのである。この部分は、高梨氏の「奥地紀行」では省略されているのである<注1>。
 ②については、すでに述べたように、ダラスが1872年(明5)に米沢を訪問しており、「日本アジア協会紀要」に既に「置賜県収録」を発表している。バードにとって、米沢は未踏地ではないのである。
 また、新政府との戊辰戦争で負けた「賊軍」の地である会津若松と米沢を避けたのだろう。戊辰戦争からまだ10年、前年に西南戦争が終結したばかりである。明治政府と英国との結びつきは強くなってはいるが、各地で外国人と日本人との小競り合いはまだ起きている状況にある。
 そのような観点から、英国女性一人が賊軍の地の旅を躊躇するのは、明治政府や英国公使館として当然のことだったと考える。これらのことから、③についても新政府に徹底抗戦した会津若松や米沢・鶴岡・酒田の「賊軍」地を避け、新政府に味方した「官軍」のまちや明治政府の息のかかったまちを選んだのは言うまでもない。
 当時の山形県は、新政府が県令三島通庸を送り込み、三島は道路開削や産業振興、税金徴収対策等々の諸策を積極的に推進していたのである。山形以北の旧新庄・久保田・津軽藩は途中で「官軍」になったので、それほど心配はないと考えたのだろう。
 開国以来の多くの外国人が、前述したように日本各地を廻り旅行記を表している。それらをバードは読破しており、先人が通った道を極力避けている。バードは、何よりも「未踏の地」と「古き日本」、即ちこれまで西洋人が通っていない道、それも西洋文明の波が及んでいない会津や置賜の山間僻地を選んだのであろう。東京出発前の「情報不充分」で空白地区224㎞とは、ここを指しているのだろうか<注2>。今後の課題である。
 ところで、バードは限られた荷物のなかに下記のブラントンの日本地図を携行している。第22信の市野々で「ブラントン氏のすばらしい地図にはこの地方が載っていないので、旅を続けるにはよく知られた都市山形を目標に定め、そこに至るルートを考え出すしかありません」とある<注3>。
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 ブラントンは、横浜の街や各地の灯台を造った人であり、銅像が横浜スタジアムの広場東側にある。この地図は横浜開港資料館に所蔵されている。バードが荷物を吟味して携行した貴重な情報源である。最上川や月山、主な町などは、確実に記載されているが、小国や飯豊の越後街道沿いはやはり詳しくない。
 蚤・虱でいっぱいで地区の人々が覗き込む宿舎で、バードがブラントン地図を広げて行動計画を練る様子を想像するのは楽しい。おそらくその地図には、バードがその地その地で気づいたり考えたメモが、ぎっしり書き込まれていたのではなかろうか。バードのメモが書かれた地図が発見されることを、今後に期待している。
<注1・2・3>イザベラ・バード著 時岡敬子訳 「イザベラ・バードの日本紀行」 講談社学術文庫 2008.4 (上) P84,P286,P309

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